141|190114|大阪

 「書いたらいいと思います」

 

 ブログを書くことを逡巡していた方とのやりとりでそう言ったものの、所詮他人事だったかもしれないと思い、大いに反省している。自分のなかにある傲慢さがすぐ外に漏れ出てしまうことを恥ずかしく思う。

 

 実際に「書く」ということは大変なことなのだ。書くテーマや内容がはっきりしている場合もあれば、いつまで経ってもはっきりしない場合もある。さっさと何かしらのテーマを設定し、それについて書けばいいじゃないかなどとは思うのだが、そんなことが分かっていてもどうにもできないから苦しんでいるのである。

 

 そしていざ書き始めたところで、書き進めていくうちに、自分が今書いていることなど全く無価値なんじゃないかと思えてくるのだ。こんなこと、わざわざこの場でさらす必要など全くないじゃないかなどと自問自答が始まり、その結果、これまで時間をかけて書いてきた内容を自らの手でゴミ箱に捨てたりするわけである。

 

 今日もぼくの個人的な話ばかりを書いているが、(勇気を出して、恥を捨てて、少し傲慢になって)この流れで書き進めていくことにする。

 

 ぼくの場合で言えば、今こうして「自分語り」をしていることに限界を感じつつあるわけである。そして、どこかしらのタイミングで次のフェイズへと移行せねばならないと思っているのである。

 

 しかしながら、その移行にいつ取り組み始めるのか、そしてそこで何をどう書いたらいいのかなど、さっぱり分からないことばかりである。ぼくは前に進むことに挫け断念しそうになる。今のこの瞬間も、こんなこと書いていて何の価値もないんじゃないかというささやき声がどこかしら聞こえてくる。

 

 しかし今日のぼくは、もしそうだとしても、この場に何かを書きつけない限りここを去ることはできないと思い、ぐっと踏みとどまろうとしている。もしかしたらその力は、あの瞬間の全身全霊で「書いたらいいと思います」と誠実な思いをもって投げかけたところから湧き出てきているのかもしれない。だとすれば、ぼくはあの人のおかげで、あの言葉を自らに投げかけさせていただいた、ということになるのかもしれない。

 

 書くことには意思を要する。意思的に生きることは大変だし、めんどくさくて難儀なことかもしれない。

 

 しかし、今回の経験を通して、書くことが大変だということの理解をまた一歩深められたからこそ、書くことの価値や可能性についての理解もまた同時に一歩深まったような気がしている。

 

 ぼくは、目の前にいる「あの人」に精一杯誠実であろうと試みた。それがあの人にとってどれだけの意味があったのかは分からない。しかしいずれにせよ、ぼくの精一杯は「書いたらいいと思います」という働きかけであった。そして不思議なくらい、その働きかけはダイレクトに自らの元に戻ってきたようである。

 

 ぼくにとって「書くこと」は重たい行為である。ぼくにとって重石のような存在と言えるかもしれない。そして重石を抱えて生きることは苦しさを伴うことである。それを抱えて生きたとして、何かご利益はあるのだろうかなどと考えてしまう自分が存在するのもまた事実である。

 

 世界は自らの映し鏡として存在する。だから、自らが世界に関わろうとする覚悟も含めた様式に応じて、世界の現れ方はその様式を変えていくのかもしれない。

140|190113|大阪

 罪悪感の正体を追いかけている。

 

 光影、善悪が表裏一体で存在しているとすると、あらゆる善には悪が潜んでいることになろうし、また同様に悪にもひそやかに善は存在しているということになろう。そう考えると、悪に対するイメージが少し変わってくる。罪悪感は単純な悪に伴うものではなさそうである。罪悪感は自らとどう関わりがあって発生するのであろうか。

 

 とりあえず「罪悪感」をググってみると、ウィキペディアに気になる文言があった。

 

 「罪悪感の本質とは、集団から排除される危険を感じたときに生じる、本能的な生命の危機感の表出である」(中野信子、澤田匡人「正しい恨みの晴らし方:科学で読み解くネガティブ感情」)。つまり罪悪感とは「集団から排除される危機感から生じる」もの、ひとまずそう理解することにする。では、それは一体どういうことであろうか。もう少し解釈を深める必要がありそうである。

 

 また同じくウィキペディアの記載から、罪悪感とは「自らに内在している規範意識(正しいと認識されているルール、倫理や道徳)に反していると感じるところから生まれるもの」と読み取れる。自らの体感と照らし合わせてみても、その記載内容には合点がいくように感じる。

 

 再び先ほどの話に戻るが、罪悪感の発生源が「集団から排除される危機感」とすると、集団の意識、その集合意識のスタンダードにとって受け入れがたい行為に臨もうとしたり、あるいはそれらに中指を立てるような反抗的行為に臨もうとする主体は、「その行為そのものの善悪に関わりなく罪悪感を抱く」ということになるのであろうか。

 

 ちなみに、ここで書いている話の前提となっているのは、ぼくの極めて個人的な事情である。これからどう生きていくかと自らに問うなかで、どういうわけか「罪悪感」というテーマが前景化してきている。ぼくが誠実であろうとするならば、それには取り組まざるを得ないようである。年頭のご挨拶で、「自分のため」と「誰かのため」とを結びつける試みに挑戦したいと書いた。「罪悪感」をぼくなりに深めていくことによって、どこかしら誰かしらにつながっているところまで到達することに挑戦していくつもりでいる。

 

 さて、罪悪感が「集団から排除される危機感」によって生じるとすれば、それは自らを安全に守ろうとする働きということになろう。そして、その働きかけに善悪はなく、また同時に善悪ともにあるとも言えよう。

 

 ぼくは、現実は内面の映し鏡として現れるという立場をとる。それについても、その背景となるものを示す必要があるかもしれないが、ここでは割愛させてもらう(すみません)。仮にそうだとするならばという前提で話を強引に進ませてもらうと(ホントすみません)、集団から排除される危機感とは、自らの意識が、集合意識のスタンダードと同調・協調していた状態から逸脱していこうとしている可能性があることを示しているのではないかと思える。

 

 だとすれば、これまで自らにとって居心地の良かった世界と泣く泣くでも決別し、次の新たな世界へと意識的に移行していこうとするとき、罪悪感というものを自分の内面から現れてきたメッセージとして自覚的に生かすことができるのではないか。

 

 

 

 ここ最近、ぼくは「罪悪感」を感じはじめている。実のところ、これまでにはほとんどなかったことである。このことは果たして何を表しているのだろうか。

 

 これまでは罪悪感を感じないように、自らのセンサーを閉じていたようにも思えてくる。自らのあらゆる態度や行動を、それを感じないように無意識に調整していたのかもしれない。恐らくは、そうするしかなかったのであろう。なぜならば、これまでのぼくには、罪悪感の苦しさに耐えながら活動することなど到底不可能であったからである。

 

 では果たして罪悪感を感じること自体に、善悪があるのだろうか。善とは言えないように、また悪とも言えないのではないかと思う。罪悪感を感じることに善悪はない。そこには、その両面が同時に含まれている。それは行為の善悪とは関わりなく発生しうるものであり、それを認識しておくことによって罪悪感から少し自由になる可能性が生まれるのではないだろうか。そして、そのことは生き方を変える可能性を生み出すように思える。

 

 確かにこれまでのぼくは、罪悪感から逃避してきたと言えるかもしれない。そのことで得られたものもあったと思う。そしてそうするために、自らの心の深くに沈めてきた大切なものもあったようにも思う。たとえば? 今思い当たるのは、自らの傲慢さと卑屈さであろうか。もしかしたら、傲慢な自分を隠すこと、後ろに下がらせることで、そこに存在している罪悪感から逃れてきたかもしれない。

 

 ぼくはこれまで謙虚や素直であることを美徳としてきた。そして、それを日常として生きられるように務めてきたつもりもある。そのことに価値がなかったとは思ってはいないし、これからもそれらを美徳として生きていくことは大筋として変わらないような気もする。

 

 しかし、「自らが傲慢である」かもしれないという罪悪感の気配から逃れようというエゴがそこに隠れていたとしたら、それは自らが持ち合わせているものを生ききることから遠いあり方であったかもしれないとも思う。謙虚や素直さは、ぼくの持ち味ではなく、現実に適応していく必要から育てたパーソナリティの一つであったのかもしれない。そしてぼくの本性とは、その対極にある傲慢さであるのかもしれない。

 

 「自らが傲慢である」という罪悪感をそのまま生きることは、自らを晒して誠実に生きることにつながるのかもしれない。そして、そうした罪悪感の重みこそが、傲慢なぼくの身を正してくれるのかもしれない。

 

 罪悪感を感じる方向へと意識的に向かっていくことによって、ぼくは自らを十全に生ききる道の入口に立つことになるのであろうか。その罪悪感とともにい続けようとすることが、大きな過ちから身を遠ざけるということになるのであろうか。

 

 まだ分からない。

 

 しかしそれは、罪悪感に開きなおるとか居直るという境地とは似て非なるものであるようには思う。持続する意思と思考の営みによってのみなし得るものではないかと思う。

 

 罪悪感や傲慢さをめぐるこうした問答は、しばらくのあいだ続きそうである。

139|190112|大阪

 昼から大阪に移動。なんだか身軽な感じがする。そんな身軽さに浮かれて、余計な動きをしてしまいそうになる自分を戒める。

 

 これからは何かに答えを求めたりすがったりするのではなく、自らを頼りにしていければと思う。自らが頼りになるかどうかは、そのときの自分がよくわかっている。その感覚を偽ることはできない。

 

 自分を頼りにできる日々をどう生きることができるか。頼りになる自分をつくるためにどう日々を過ごすか。ここのところ、そんなことを考え、試行錯誤を繰り返してきた気がする。

 

 右手首は順調だが、湿疹が出てきている。少し疲労が出ているかもしれない。

138|190111|京都

 雪の札幌を後にし、大阪経由で京都に来ている。この日はぼくにとって一つのケジメである。喪明けだ。まだ現実的に完了できていないこともないわけではないが、一つの区切りであることには何ら変わりがない。

 

 これまで40年余り、懸命に生きてきた。それはそれで、かけがえのないものである。後ろに過ぎ去ったものとして大切などこかに大切に置いておけばいい。そして、これからはこれからであり、まっさらである。新たにまた始めていけばいい。

137|190110|札幌

 近くの公園を散歩し、神社を参拝。紅葉の季節には鴨が泳いでいた公園の池も、神社の手水舎も凍っている。ここでフィニッシュを迎えることはできなかったが、やるだけはやった。大きな後悔はない。何度か行った珈琲屋に立ち寄り、夕食はジンギスカンを食べ、荷造りをした。明日の朝を迎え、いつもと同じように起き、いつもと同じように食事をしたら、ここをチェックアウトして新千歳空港へと向かうことになる。

 

 自らの過去を振り返り、書き記していくのは、楽しいわけではないが苦しいわけでもなかった。とは言え、いざ意思を奮い起こさなければそれは始まることもなく、毎日ゼロから自らを起動しなければ何も動き出さないということも含めて、それなりに難儀してきたとは言えるかもしれない。

 

 当初より明日を区切りとしてきたが、とてもじゃないが終わりそうにない。下手に気合を入れたところでどうにかなるものでもない。仕方がないと諦める。しかし明日からも日々は続いていく。ぼくがやるべきことは、ぼくにしかできない。あるところまで行き着き、次の景色が見えてくるところまで、決めたことをやめるわけにはいかないのだ。

136|190109|札幌

 予定が早く終わるメドが立てば、友人に連絡しようと考えていた。その思いは叶いそうにない。1日は長いようで意外と短いものである。

 

 札幌には秋から冬にかけて長く滞在したが、それも明後日まで。しばらく来る予定はない。ここを去る前に晴れやかな気持ちで町中を散策できればと思っていた。しかし現状では難しそうである。

 

 初めて訪れた9月には地震に遭った。あの日からまだ半年も経っていない。ぼくにとっての9月はもう遠い過去にある。

 

 これまでの人生、これほどの雪にまみれながら道を歩いたことはなかったかもしれない。日暮れ後の公園を歩く。雪の舞う風景を動画で撮る。娘に見せてやろう。

 

 ぐっと踏みとどまり続けることぐらいしかできなかった。前に進むことはできなかったし、とは言え後ろに戻るわけにもいかなかった。もどかしさを抱え、せめて今の務めぐらいは果たそうとしてきた。札幌の冬は寒く、今のぼくにはぴったりだった。札幌を選んだのは間違っていなかったように思う。

 

 泣いても笑っても残り2日。最善を尽くし、行き着くところまでは行ってみたい。

135|190108|札幌

 ここに来てからと言うもの、布団に入っても寝つけない日々が続いている。取り組んできたことに「終わり」が見えてきたからかもしれない。確かにぼくは最後の峠を登りはじめている。何事もなければ遠からぬタイミングでゴールに辿りつくだろう。ぼくはそこに辿りつかねばならない。

 

 ぼく自身がそのことを望み選んで、この半年を過ごしてきた。しかしいざ終わりが見えてくると、その状況に躊躇っているというのが現状なのかもしれない。このまま終わらせていいのであろうか。これまでのことに未練や愛着もある。今後、道なき道を歩んでいかねばならないことに対する不安や恐れもある。

 

 しかしいずれにせよもうまもなく、ぼくはある流れをいったん完了させるであろう。そして新たな流れを始めていくであろう。これまでの自分を認識し、それと訣別していくことには怖さもある。新たな自分を生きていくことに不安もある。だがそれ以外の道がないこともぼくの現実である。

 

 ここまで歩むことができた自分を誇らしく思う。しかし気を抜くわけにはいかない。行き着くところまで辿りついてから、力は抜けばいい。先のことについても、そこで考えればいい。つい暴れだしそうになる自分をどうにかこうにかたしなめながら、ぼくは目の前にある峠を登っている。