146|190119|広島

 ぼくたちの持ち時間は限られている。時間とは「いのち」そのものである。そう考えれば、時間ほどかけがえのないものはないのかもしれない。

 

 時間の有限性を認識することと、その価値が高まり深まることとはつながっている。目の前に流れている時間への集中度が高まるのであろうか。有限な時間を意識し、その価値を高め深めようと取り組んできた人は、濃密な時間を過ごしているように思える。ぼくもそのことは意識してきたつもりはあるが、初学者の域を出ない。時間に大きな敬意を払い、それを大切に扱って生きている人たちがいる。ぼくはそうした人たちに関わって生きていきたいと思う。

 

 大切なことを大切にすること。時間を大切にすること。それはぼくにとって、何より大切なことの一つである。そうした自分を形成していくために、似たような思いをもった人たちとの関わりを今のぼくは求めている。濃密な時間を重ね、この人生を生ききりたいと願っている人は、きっとたくさんいる。

 

 どうしてぼくは人と関わり、関わろうとするのか。それは、人生の時間濃度と関係しているのではないかと思い至る。

 

 たとえばセッションという場を通じて、週に50分間、ぼくはある人に関わる。50分とは、週7168時間のうちの0.5%に過ぎない。しかしその0.5%の積み重ねから全体は成り立ち、それを積み重ねた果てに誰もが臨終の時を迎える。

 

 それが永遠に続くわけでなく、無尽蔵に存在していないからこそ、そこに価値が生じる。だから、それが仮に全体の0.01%としても、実際的に限りなく貴重でかけがえないものであろう。そのかけがえのないものを、そのように扱うことに挑むのである。ぼくには実に難しい試みである。

 

 たとえ15分であれ、50分であれ、3時間であれ、そしてそれが意識的であれ無意識的であれ、その時間を何に対してどのように投ずるのかをぼくたちは選んでいる。実際には、さまざまな事由から何をするのかについては選べないケースが多いかもしれない。しかし時間をどのように投ずるか、その時間をどう過ごすかについては、いつだってその人に選択権があるのではないだろうか。

 

 ぼくにとってのセッションとは、それぞれにとってかけがえのない時間を、誠実で真摯な関わりに投じあう営みである。時間に対する認識は、その関わり合いの時間に意味や価値を生み出すうえで、とても重要な役割を果たすように思う。

 

 実際的な面において、ぼくがその人に関わっている時間は、週のうちの0.5%にすぎず、その人の人生全体の0.001%に満たないであろう。しかし、その限られた時間を、日常に流れる時間と異なる密度をもった時間にできればと思う。もちろん主役はぼくではなく、目の前にいるその人であるが、ぼくはその場に臨むための準備をしておかねばならない。

 

 もしそのことが可能になるとすれば、かけがえのない瞬間の積み重なりでぼくたちが成立していることを理解しようと試みること、つまり未熟ながらも自らがそれを実践することが前提となるのではないかとぼくは思っているのである。

 

 そうして、ぼくは今日一日を振り返り、どう生きたかを問うのである。

145|190118|広島

 自らの傲慢をようやく自覚するに至る。

 

 とは言え、傲慢はどこまでも傲慢なもので、自覚したと言っても解消するわけではないようである。どこまでも自覚しようと試み続けねばならないのかもしれず、扱いがとても難しい。

 

 傲慢をエゴイスティックと置き換えてみる。そうか、ぼくはどこまでもエゴイスティックな人間なのか・・・。そう思いたくない自分もいる一方で、現実として認めたほうがいいと思っている自分もいる。

 

 認めようと認めまいと、エゴはそこにある。あると認めてしまえば、そこに何かしらの価値を見出そうとする試みが立ち上がってくるのかもしれない。エゴイスティックな人間だからこそ、より良く生きるうえでエゴを認識しようとする必要が生まれるのかもしれない。

 

 自らのエゴを認められずに生きてきたわけだが、その過去において、どれほどの人をその餌食にしてきただろうか。意識できていなかったとは言え、そうした自分に流されてつくってきた現実によって、多くの人を知らず知らずのうちに傷つけ、自らも傷ついてきた。その原因を自分の心に求めたとき、できるならば、できる限りそのような愚を犯さずに済む自分でありたいと思うところにまでは至ったのかもしれない。

 

 どうしようもないほどの生命力をもったエゴを理解し認識しようとすることによって、どうにか制御を試みている。しかし実際のところは、どこまでそれを制御できているのかは甚だ心もとない。

 

 自ら気づかぬうちに、強力なエゴの力に流されていないだろうか、誰かのためを装った自分に酔ってしまうことを、そして実のところ自らを満たすために動いているということを、どれくらい制御できているのだろうか。正直なところ、あとからあとから自分の至らなさを自覚するに至る日々である。

 

 しかし、それぐらいエゴの強い人間であるからこそ、誰かのためにできることがあると信じたい。「誰かのため」に近づくためには、ぼくはどこまでも自分の心に自覚的であることに精進しなければならないのかもしれない。ありがたいことなのだが、安易な道はなかなかないのかもしれない。そんなことにすら、ぼくはここに至ってようやく気付いたばかりなのである。

144|190117|大阪

 かけがえのない人生を生ききるために、力になれることがあればと思っている。その人は、ぼくの常識や限界をはるかに越えたところを生きているのかもしれない。これまでの経験など、役に立たないどころか邪魔になることすらあるようにも思う。

 

 自分のことを横に置いて、ただその人の隣に佇むことなどできるのであろうか。少なくともぼくにとっては、簡単なことではない。

 

 あらゆる瞬間、あらゆる場面で、地は出ているものである。これまで相手のためにやっていると思い込んでいたが、その大半が自分のためであったように思う。あまりの恥ずかしさに、どこかに引きこもってしまいたくなる。

 

 果たしてぼくが、自らの常識や限界の枠を越えたところに立っている人を信じ、その傍らに寄り添うことなどできるのであろうか。

 

 しかし、これからぼくが生きていこうとしている方向は、おそらくそちらへと向かっている。その人が自らの力で何かしらを獲得していくことに寄り添い、励まし、信じ、ともに生きるということ。

 

 だから、何があってもだいじょうぶという自分になるためにも、ぼくは今を越えていかなければならないのだ。そうして、苦しみや葛藤はこの先も続いていくのかもしれない。

 

 誠実であることは難しい。ぼくにとっては、自らが誠実でないということをよく認識しておくことによってのみ、それを意識しているときにおいてのみ、その人に僅かばかりでも誠実であることが可能になるのかもしれない。

142|190115|大阪

 これまで自らを衝き動かしてきた正体に気づいてからというもの、約半年ほど引きこもり、人様にご迷惑をかけないと思える範囲で関わりをもつことを自粛してきました。一人にならなければできないことに粛々と取り組みながら、次に動き始める時期がやってくるのを待ち、そのための準備をしてきたわけですが、どうやらその時期に差しかかってきたようです。

 

 ここから先に進むためには、新たなテーマを課し、それに粛々と取り組んでいかなければならないのかもしれません。そうしなければ、ぼくは早晩行き詰まることになるでしょう。そのことを十分に感じられるところまでは行き着いたようです。

 

 ぼくは心新たに、初心に立ち返って、これからを歩むことにチャレンジしていきます。果たしてどこまでそれができるでしょうか? ぼくはどうにも傲慢で怠惰に過ぎるようです。恥ずかしながら告白すると、自分がこれまで何かしら立派なことをやってきたかのように勘違いしていたのです。要するところは、これまでに頼らず、何もないところから改めてスタートする自信も覚悟もなかったのです。ちっぽけなプライドと言うのか、プライドとも呼べないようなものにしがみついて、崩れ落ちそうな自らをなんとか支えていたのかもしれません。

 

 あとどれくらい生きるのか、あとどれくらいの時間が与えられているのかと考えます。そうした条件を現実的に考えると、残りの人生でそれほどたくさんのことができるとは思えなくなりました。それがいいことなのか悪いことなのかはわかりません。いずれにせよそうした前提に立って、ぼくはこれから誰のために何をしていくのか、どうやって生きていくのかと考えています。

 

 これまでの人生のなかで、ぼくはすでに十二分に与えてきてもらったようです。ぼくがこれから果たしていくべきことはすでに十分に刻まれているように思います。ぼくは自らが持ち合わせているものを集中させ、これからの自分を改めてつくり直ししていかなければならないところに立っているのです。

141|190114|大阪

 「書いたらいいと思います」

 

 ブログを書くことを逡巡していた方とのやりとりでそう言ったものの、所詮他人事だったかもしれないと思い、大いに反省している。自分のなかにある傲慢さがすぐ外に漏れ出てしまうことを恥ずかしく思う。

 

 実際に「書く」ということは大変なことなのだ。書くテーマや内容がはっきりしている場合もあれば、いつまで経ってもはっきりしない場合もある。さっさと何かしらのテーマを設定し、それについて書けばいいじゃないかなどとは思うのだが、そんなことが分かっていてもどうにもできないから苦しんでいるのである。

 

 そしていざ書き始めたところで、書き進めていくうちに、自分が今書いていることなど全く無価値なんじゃないかと思えてくるのだ。こんなこと、わざわざこの場でさらす必要など全くないじゃないかなどと自問自答が始まり、その結果、これまで時間をかけて書いてきた内容を自らの手でゴミ箱に捨てたりするわけである。

 

 今日もぼくの個人的な話ばかりを書いているが、(勇気を出して、恥を捨てて、少し傲慢になって)この流れで書き進めていくことにする。

 

 ぼくの場合で言えば、今こうして「自分語り」をしていることに限界を感じつつあるわけである。そして、どこかしらのタイミングで次のフェイズへと移行せねばならないと思っているのである。

 

 しかしながら、その移行にいつ取り組み始めるのか、そしてそこで何をどう書いたらいいのかなど、さっぱり分からないことばかりである。ぼくは前に進むことに挫け断念しそうになる。今のこの瞬間も、こんなこと書いていて何の価値もないんじゃないかというささやき声がどこかしら聞こえてくる。

 

 しかし今日のぼくは、もしそうだとしても、この場に何かを書きつけない限りここを去ることはできないと思い、ぐっと踏みとどまろうとしている。もしかしたらその力は、あの瞬間の全身全霊で「書いたらいいと思います」と誠実な思いをもって投げかけたところから湧き出てきているのかもしれない。だとすれば、ぼくはあの人のおかげで、あの言葉を自らに投げかけさせていただいた、ということになるのかもしれない。

 

 書くことには意思を要する。意思的に生きることは大変だし、めんどくさくて難儀なことかもしれない。

 

 しかし、今回の経験を通して、書くことが大変だということの理解をまた一歩深められたからこそ、書くことの価値や可能性についての理解もまた同時に一歩深まったような気がしている。

 

 ぼくは、目の前にいる「あの人」に精一杯誠実であろうと試みた。それがあの人にとってどれだけの意味があったのかは分からない。しかしいずれにせよ、ぼくの精一杯は「書いたらいいと思います」という働きかけであった。そして不思議なくらい、その働きかけはダイレクトに自らの元に戻ってきたようである。

 

 ぼくにとって「書くこと」は重たい行為である。ぼくにとって重石のような存在と言えるかもしれない。そして重石を抱えて生きることは苦しさを伴うことである。それを抱えて生きたとして、何かご利益はあるのだろうかなどと考えてしまう自分が存在するのもまた事実である。

 

 世界は自らの映し鏡として存在する。だから、自らが世界に関わろうとする覚悟も含めた様式に応じて、世界の現れ方はその様式を変えていくのかもしれない。

140|190113|大阪

 罪悪感の正体を追いかけている。

 

 光影、善悪が表裏一体で存在しているとすると、あらゆる善には悪が潜んでいることになろうし、また同様に悪にもひそやかに善は存在しているということになろう。そう考えると、悪に対するイメージが少し変わってくる。罪悪感は単純な悪に伴うものではなさそうである。罪悪感は自らとどう関わりがあって発生するのであろうか。

 

 とりあえず「罪悪感」をググってみると、ウィキペディアに気になる文言があった。

 

 「罪悪感の本質とは、集団から排除される危険を感じたときに生じる、本能的な生命の危機感の表出である」(中野信子、澤田匡人「正しい恨みの晴らし方:科学で読み解くネガティブ感情」)。つまり罪悪感とは「集団から排除される危機感から生じる」もの、ひとまずそう理解することにする。では、それは一体どういうことであろうか。もう少し解釈を深める必要がありそうである。

 

 また同じくウィキペディアの記載から、罪悪感とは「自らに内在している規範意識(正しいと認識されているルール、倫理や道徳)に反していると感じるところから生まれるもの」と読み取れる。自らの体感と照らし合わせてみても、その記載内容には合点がいくように感じる。

 

 再び先ほどの話に戻るが、罪悪感の発生源が「集団から排除される危機感」とすると、集団の意識、その集合意識のスタンダードにとって受け入れがたい行為に臨もうとしたり、あるいはそれらに中指を立てるような反抗的行為に臨もうとする主体は、「その行為そのものの善悪に関わりなく罪悪感を抱く」ということになるのであろうか。

 

 ちなみに、ここで書いている話の前提となっているのは、ぼくの極めて個人的な事情である。これからどう生きていくかと自らに問うなかで、どういうわけか「罪悪感」というテーマが前景化してきている。ぼくが誠実であろうとするならば、それには取り組まざるを得ないようである。年頭のご挨拶で、「自分のため」と「誰かのため」とを結びつける試みに挑戦したいと書いた。「罪悪感」をぼくなりに深めていくことによって、どこかしら誰かしらにつながっているところまで到達することに挑戦していくつもりでいる。

 

 さて、罪悪感が「集団から排除される危機感」によって生じるとすれば、それは自らを安全に守ろうとする働きということになろう。そして、その働きかけに善悪はなく、また同時に善悪ともにあるとも言えよう。

 

 ぼくは、現実は内面の映し鏡として現れるという立場をとる。それについても、その背景となるものを示す必要があるかもしれないが、ここでは割愛させてもらう(すみません)。仮にそうだとするならばという前提で話を強引に進ませてもらうと(ホントすみません)、集団から排除される危機感とは、自らの意識が、集合意識のスタンダードと同調・協調していた状態から逸脱していこうとしている可能性があることを示しているのではないかと思える。

 

 だとすれば、これまで自らにとって居心地の良かった世界と泣く泣くでも決別し、次の新たな世界へと意識的に移行していこうとするとき、罪悪感というものを自分の内面から現れてきたメッセージとして自覚的に生かすことができるのではないか。

 

 

 

 ここ最近、ぼくは「罪悪感」を感じはじめている。実のところ、これまでにはほとんどなかったことである。このことは果たして何を表しているのだろうか。

 

 これまでは罪悪感を感じないように、自らのセンサーを閉じていたようにも思えてくる。自らのあらゆる態度や行動を、それを感じないように無意識に調整していたのかもしれない。恐らくは、そうするしかなかったのであろう。なぜならば、これまでのぼくには、罪悪感の苦しさに耐えながら活動することなど到底不可能であったからである。

 

 では果たして罪悪感を感じること自体に、善悪があるのだろうか。善とは言えないように、また悪とも言えないのではないかと思う。罪悪感を感じることに善悪はない。そこには、その両面が同時に含まれている。それは行為の善悪とは関わりなく発生しうるものであり、それを認識しておくことによって罪悪感から少し自由になる可能性が生まれるのではないだろうか。そして、そのことは生き方を変える可能性を生み出すように思える。

 

 確かにこれまでのぼくは、罪悪感から逃避してきたと言えるかもしれない。そのことで得られたものもあったと思う。そしてそうするために、自らの心の深くに沈めてきた大切なものもあったようにも思う。たとえば? 今思い当たるのは、自らの傲慢さと卑屈さであろうか。もしかしたら、傲慢な自分を隠すこと、後ろに下がらせることで、そこに存在している罪悪感から逃れてきたかもしれない。

 

 ぼくはこれまで謙虚や素直であることを美徳としてきた。そして、それを日常として生きられるように務めてきたつもりもある。そのことに価値がなかったとは思ってはいないし、これからもそれらを美徳として生きていくことは大筋として変わらないような気もする。

 

 しかし、「自らが傲慢である」かもしれないという罪悪感の気配から逃れようというエゴがそこに隠れていたとしたら、それは自らが持ち合わせているものを生ききることから遠いあり方であったかもしれないとも思う。謙虚や素直さは、ぼくの持ち味ではなく、現実に適応していく必要から育てたパーソナリティの一つであったのかもしれない。そしてぼくの本性とは、その対極にある傲慢さであるのかもしれない。

 

 「自らが傲慢である」という罪悪感をそのまま生きることは、自らを晒して誠実に生きることにつながるのかもしれない。そして、そうした罪悪感の重みこそが、傲慢なぼくの身を正してくれるのかもしれない。

 

 罪悪感を感じる方向へと意識的に向かっていくことによって、ぼくは自らを十全に生ききる道の入口に立つことになるのであろうか。その罪悪感とともにい続けようとすることが、大きな過ちから身を遠ざけるということになるのであろうか。

 

 まだ分からない。

 

 しかしそれは、罪悪感に開きなおるとか居直るという境地とは似て非なるものであるようには思う。持続する意思と思考の営みによってのみなし得るものではないかと思う。

 

 罪悪感や傲慢さをめぐるこうした問答は、しばらくのあいだ続きそうである。

139|190112|大阪

 昼から大阪に移動。なんだか身軽な感じがする。そんな身軽さに浮かれて、余計な動きをしてしまいそうになる自分を戒める。

 

 これからは何かに答えを求めたりすがったりするのではなく、自らを頼りにしていければと思う。自らが頼りになるかどうかは、そのときの自分がよくわかっている。その感覚を偽ることはできない。

 

 自分を頼りにできる日々をどう生きることができるか。頼りになる自分をつくるためにどう日々を過ごすか。ここのところ、そんなことを考え、試行錯誤を繰り返してきた気がする。

 

 右手首は順調だが、湿疹が出てきている。少し疲労が出ているかもしれない。