さみしさについて_1

ここのところ、さみしさと、それがもたらしたものについて考えている。

 

 

さみしさは深く積もっていた。

 

自らの感情であることを認識すれば発狂してしまうほどの酷いさみしさだったから、ぼくはそれを自分の力では気づかないぐらい深く深く隠した。意識の光が届きうる、ずっとずっとその奥に。 

 

そこは、光などあらゆる外部からの干渉を遮断していて、ぼくが思いつく限り、最も安全で守られた場所だった。厳重なシステムによって守られたさみしさは、そこを安心して自らの居場所とした。ほどなくぼく自身と見分けがつかなくなり、ほどなく同化していった。

 

それは当初、儚げで繊細だったが、徐々にライトブルーがかった透明な光を放ちはじめ、ぼくに輝きを生み出し、いつしかぼくの秘宝となった。そして、それを光源とし、ぼくは世を映した。

 

この世を生きぬくために、ぼくは適応を試み、意識的努力に励んだ。さみしさの影として生まれたものは、少しずつぼくの輝きとなり、光となり、まわりを照らす光源としての様相を示していった。 

 

 

 

共感すること。

 

他者をはじめ、外にあるものごとを自身の心に映し、まだ意識にのぼってきていない気配や兆しを感じ知覚する。そして、その対象にコミットし、その場に飛びこむ。未知なるものからの働きかけに対して、いったんは受け入れ、吞みこむ。それが仮に侵襲的であったとしても同じ。相手のことを自分ごととする。 

 

さみしさは底しれず深かったが、その深さゆえに直面することを避けてきた。さみしさから逃れようとして全能感や一体感を求めた。そして、そのイメージに適した現実をつくり没入した。

 

ジェットコースターさながらの人生は刺激的であり、生きている!という強い身体感覚は、さみしさを麻痺させ、それを忘却へと追いやった。ただ、渦中を過ぎると、似たような現実をつくらなければならなかった。さみしさから逃れるため、そこを何度も何度もループした。

 

 

依存すること。

 

制限を設けずに、ものごとに関わる。依存症といえば、アルコールだの、暴力だの、セックスだの、タバコや麻薬、スマホなどがポピュラーだろう。ぼくは、暴力とセックスについて自らの衝動を抑えられなかった時期があったことを認める。今だって、それらは予測不能なタイミングで衝動的にぼくを襲い、自らの意思を発動して制御することを試みている。

 

 

さみしさが源となって生み出し続けている、パタン化されたぼくの現実。自身を省みれば、自らを「さみしさ中毒」「さみしさ依存」だと認めざるをえない。さみしさのもつ衝動的で苛烈な濁流に、抗いきれずに押し流されてきたのである。