さみしさについて_2

前回( https://imazu-shinnosuke.hatenablog.jp/entry/180806 の続き。

 

 

 

ぼくはなにかしらの対象に関心をもつと、ぐっと関わり、のめり込み、そこから多くのことを取りこんできた。反対に、自身の気が乗らないことに対しては極端なほど無関心で、関与しないように生きてきた。 

 

のめり込むこと。集中すること。それらはぼくの持ち味であったとは思うが、それらも底知れぬさみしさがぼくにもたらした産物の一つであった。 

 

 

 

さみしさに向き合いたくないぼくは、まだ何色にも色をつけることができる白地を残すことを恐れ、嫌悪し、排除した。

 

善か悪か、右か左か、やるかやらないか、大切なのかそうでないのか。曖昧模糊とした状態が残っていることは許されず、ABかを鮮明にしようとした。何かを選択し、選んだ対象に没入することで、一体感を得た。それは、さみしさから逃れるためのシェルター機能を果たし、ぼくはその場その場をしのいできた。 

 

白地のスペースには、自由があり、可能性があった。ぼくはそこに向き合って、それとともに生きていく勇気も覚悟もなかった。そもそも、そこにはさみしさが存在しているという認識にすら及んでいなかった。

 

 

 

おそらく、余白と空白とは異なるのであろう。

 

余白とは、あいだであり、あわいである。それは制限があるようでありながら、無窮なる自由が広がっている。自覚的にそこに立って生きるということは、さみしさとともに生きていくことなのかもしれない。それに溺れることなく、ともに生きるということ。

 

 

 

さみしさは、ぼくの技を生みだしてきた秘宝。ぼくは無論、その存在に気づいてすらいなかったし、わざわざ悪戦苦闘しながら慌ただしい日々を送ってきたのは、それに気づきたくなかったからかもしれない。

 

闇雲にその力を借りて、他人ごとに共感したり、コミットしたり、のめり込んだりするのはもうやめることにする。

 

それは陰日向となって、今日までのぼくを支えてくれた。ぼくは、これまでのすべてに感謝を捧げる。そして勇気をもって、自らの正体|さみしさの正体と向き合い、それとの関係をつくりなおす新たな旅に出なければならない。

 

もう十分オトナになったのだから、きっとだいじょうぶ。ぼくはもう一人の自分に言い聞かせている。