1|180827|東京

「さみしさ」を気のおけない友人に話すことで、世界の靄が晴れ、痛みが緩和されてきたような気がしている。

 

さみしさと生きているのは自分だけではない。ある種の被害者意識にはまっていて見えなくなっていた真実に気づく。ある人はお酒に、ある人はセックスに、ある人は仕事に、また他の何かに。人間は生きていくために何かしらに頼らなければならないのかもしれない。

 

それを依存と呼ぶこともできるのかもしれないし、バランスと呼ぶこともできるのかもしれない。その度合いやバランスは、その時のその人によるのだろう。時にバランスを崩したりもする。次のバランスに向かっていく人もいる。そうして、11日をどうにかこうにか懸命に生きている。

 

「みんな、さみしいんじゃないの。そんなこと言ったら、ぼくがテニスに没頭しているのもさみしさからなのかもしれないし。家族と一緒にいたって、さみしいことだってあるしね。」 彼はぽろっとぼくに応えた。深いさみしさと同時に、ぬくもりを感じた。

 

なにかしらの言葉を返したいと思ったが、適切な言葉が見つからず、ぼくは沈黙した。彼を直視しつづけることもできなかった。彼もそれ以上の言葉は継がなかった。一定の沈黙のあと、ぼくは10年以上も前になる彼との思い出を話し、ぼくたちは別れた。

 

ぼくのなかに、なにか、あたたかいものが残った。

 

誰もが何かしらのさみしさや依存を抱えながら生きているのかもしれない。さみしさとともに生きることは特別なことじゃないのかもしれない。そんな風に思えた今日を、ぼくの新たなはじまりの日にしたい。