16|180911|沖縄

 娘の幼稚園での保護者向け勉強会に参加してきた。テーマはスマホが子どもに与える影響について。ぼくなりにその場で受けとったことを要約すると、スマホやテレビに子どもが長時間接すると脳や身体に深刻な悪影響を及ぼすということだったように思う。

 

 もちろんスマホに限らずあらゆる物事には、ポジティブな側面があればネガティブな側面もあるわけである。一面であるネガティブな側面にばかり意識の焦点があたった結果として、過剰反応をしてしまうことは避けたいと思っている。そしてこの過剰反応あるいは過剰適応こそ、今のぼくが改善したい最大のテーマの一つでもある。

 

 

 さて、プレゼンテーションにはプレゼンテーションの責務や役割がある。どんなプレゼンテーションも、その時その場を取りしきる者の目的を果たし目標達成に近づくために為されている。聞き手の心を動かし意思決定を促すために(あくまでも話し手にとって好ましい方向に)、それに適したもっともらしい根拠を重層的に重ねるプロセスである(もちろん話し手が意識しているかしていないかの違いはあるかもしれない)。

 したがって、その根拠がどれだけ確からしシンクタンクや大学などの権威が公表したものであったとしても、聞き手であり受け手である私たちが、そうしたプレゼンテーションのそもそもの存在意義とも言えるような意図の存在を見失い、その場で為された創意工夫に安易に流されるのは賢明ではない、とぼくは考えている。

 同じ情報コンテンツであっても、どの文脈に置かれるかによって、その意味や価値はまったくの別物に転ずる。原子力が生命を救うのにも奪うのにも使えるのと同じように。

 とりわけ人生に大きなインパクトを及ぼしうるように思える意思決定の場面において、ここ最近のぼくは以前にも増してますます慎重になっているような気がする。臆病で小者にすぎるのかもしれないが、蛮勇の影にさみしさがあったと気づいたからにはそうしないわけにもいかない。

 

 

 スマホやテレビが子どもに有益だと認識したうえで、そうした環境を子どもに提供している親はどれぐらいいるのだろうか。あるいは、それらが子どもに有害であると認識したうえで、そうした環境を子どもに提供している親はどれぐらいいるのだろうか。

 きっと、有害だと認識していたとしたら、その環境を子どもに積極的に提供しようとする親はほとんどいないだろう(もちろんそうあって欲しいというぼくの願望である)。少なくとも有益とは言えない環境のなかに子どもが置かれていたとしたら、その大半の親は、やむを得ず、あるいはその価値や意味を認識せずにやっているのではないだろうか。

 ちなみにぼくは、自分の娘がスマホやテレビに接するのは、長くても11時間に制限したほうがいいと考えている。

 

 

 この日の夕食後、娘主催の家族会議が開かれ(ちなみに初開催である)、ぼくは幼稚園で聞いた話とともに自分の考えを妻と娘に共有した。現状維持はリスクが大きすぎる。改善あるいは改革したほうがいい。

 現状を改め新たな取組みを始めるためには、エネルギーを必要とする。今でも十分大変なのであり、できればめんどくさいことはやりたくないのである。だからこそ、そこに意思の存在が必要となり、意義や目的がそれを後押ししてくれる。相反する気持ちをもちながらも、真に大切なことに向かって人は動くことができる(そう信じたい)。

 家族会議は総論賛成で終わった。これからは、その方向を現実化し日常生活でやっていくために、それぞれの意思を前提とした率直な対話を重ね、役割交替したり不要なタスクを捨てたりしながら、それぞれの新たな責務を果たし、そうしてぼくたちはまた次に向かっていくのだ。

 

 

 

 自分自身のことを顧みる。

 

 ダイニングテーブルで家族と食事しながら、スマホを手元に置き、置いておくだけでは飽き足らず画面を注視し、SNSや受信メールを確認している自分。あるいは、幼稚園の送り迎えの車中、急ぎ対応すべき案件がないにもかかわらず、赤信号や渋滞で生まれた隙間時間にロックを解除し画面を覗きこむ自分。目の前に生身の大切な人がいるというのに、スマホに意識をもっていかれている自分。

 

 果たして、ぼくの人生にとって、スマホがそれほどまでに重要なのだろうか。違う、即答だ。では、スマホの先に見え隠れしている仕事はどう? 緊急対応が不要な状態をつくるのも仕事の一部であるし、幸いなことに現状は緊急対応を求められる立場に立っているわけでもない。そうして自らが何をしているのかにいったんでも気づけば、そこから変わっていくことはできる。

 

 今目の前にいる人に心のエネルギーを注ぐ。それができる状態にあるにもかかわらず、そのことに煩わしさを感じている自分がいる。心の荒廃、そんな言葉が頭をよぎる。

 

 もて余すほどの深いさみしさや孤独感。怠惰や妥協に流される甘えた心や体質。ぼくが向き合うべきは、そうした自身の心の真相であり、自らが果たして何を大切に人生を全うしたいのかという問いである。

 気づき変わっていくのは、あくまでぼく自身である。ぼくは彼女たちが学び育つ環境の一部でしかないが、その一部としての責務がある。