18|180913|沖縄

 書くことはイマヅさんにとってどんな意味や価値があるのですか、とコーチは問いを投げかけた。

 

 自分のことを知るために書いているんです、などと答えたような気がするが、おそらくはそうなのであろう。自分の内側にあるもやっとした正体不明の何かを言葉という器に移し替えることで、ようやくぼくは自分自身のことを認識できているという感覚を得ることができる。

 

 牛の消化活動みたいなものですかね、と彼女は続けた。

 

 牛の消化活動について考えたことなど今までに一度もなかったが、どうやら牛は食べ物を消化するときに何度も何度も咀嚼するらしく、ぼくの話からはその消化活動中の牛が連想されるらしい。

 なるほど牛か、そうなのもしれないなと思う。牛みたいと評価され、案外悪い気がしない。なんとなく今の自分にジャストフィットしている感じすらある。

 

 ぼくは自らが体験してきたことを、書く行為を通じてもう一度体験し直しているのかもしれない。そうしてようやく、その体験を消化し、必要な栄養分を自らに取りこみ、不要なものを排泄することが可能になっているのかもしれない。

 

 今は過去の積み重なりによって成立しているのであろう。そして同時に、過去に結びついて存在している記憶や愛着のなかには、いまだに今を照らし続けうる遺産もあるだろうし、もはや不要な老廃物もあるだろう。

 

 ぼくは不要となった記憶を手放すために書いているのかもしれない。いずれにせよ、今目の前のものごとに集中して生きようと思えば、食べることや眠ることと同じように書くことが必要なのである。