22|180917|東京

 朝、ホテル近くのコンビニに向かいスポーツ紙を4紙購入する。どの紙面でも平成の歌姫・安室奈美恵の引退と、個性派俳優・樹木希林の死去を大きく取り上げている。

 

 安室奈美恵1年前に引退を宣言。ファンに送った最後のメッセージのなかで「この1年、11日を大切に過ごさせていただきました」と述べられていた。樹木希林は長く全身がんを患い、死に直面しながら俳優としての役を全うし天に召された。

 

 もし自分の残り時間があと1日だとわかったら、ぼくはどんな1日を選択するだろうか。あるいは1年だったとしたら、どんな1年を選択するだろう。そして果たしてぼくは選んだ道を全うすることができるのだろうか。

 

 自らの過去を省みても、選んだ道を歩み続けること自体が、そもそも容易なことではないように思う。ましてや自らの生命が何かしら脅かされるような状況に陥ったとき、あるいは自らの自由度を奪ってしまうほど自らの感情が深く揺さぶられる状況にあるときには、決めた道を歩み続けることは困難を極める。そう簡単にはできない。少なくとも今のぼくには、まだそこまでの意思の持ち合わせはない。

 

 1日なのか1週間なのか、1年なのか10年なのか、それは誰にもわからない。いずれにせよぼくも、いつか肉体ある人間としての終わりを迎える。実感は甚だないが、これに関してはどうやらそれ以外の道はないようである。そのことはものすごく残念な気もするし、同時になんとなくほっとするような感じもある。

 

 できるならば身体機能が停止する直前まで、精神が輝いて活動できるような自分であれたらとは思うが、先のことについては分からない。今ぼくができることと言えば、その可能性を残しておくための心がけある日々の生活しかない。残念ながら、あるいは幸いなことに。

 

 いずれにせよ持ち時間は限られている。大切な誰かのことを思いながら、自らが選択した道が目の前にある。その道は茫漠とし朧げであり、そうであるが故に時に不安や恐れをかきたてる。しかし確かに自分で決めた道だ。決めたのは自分なのだ。その道そのものを、自らの意思によってつかもうとしているのだ。

 

 しかし、ぼくの身体は危険を知らしめるために高らかに非常警報を鳴らす。自分を守るために彼も必死なのだ。死んだら永遠に存在しなくなってしまうと思い込んでいるから必死なのだ、その文字通り。だからあらゆる手を講じて、ぼくの行く手を阻もうとする。敵を倒そうとすればその弱点を突くのが定石だ。だから彼はとりわけ生身のぼくの弱いところを突いてくる。たとえば、娘や妻、両親や親友、あるいは愛する故郷や大切な価値観など。彼はそれらを駆使してぼくの旧い記憶を呼び起こし、意志薄弱なぼくを衝動的な感情の渦にとりこもうとする。

 

 感情は寄せては返す波のよう。大自然の円環するリズムであり、一時的なものであり繰り返すものである。そして、その波に乗って生きるというのも悪くない。それも一つの生き方であるし、なによりぼくはそうやって生きてきた。

 持ち時間が限られているとしたら、ぼくはどう生きたいのだろうか。1日あるいはその瞬間に何を選択する存在でありたいのだろうか。ぼくは自分の深いところを流れているかすかな音に耳を澄ませる。

 

 自らの不安を解消し、快楽を追求する生き方にも憧れる。感情を満たしたいという欲望はある、もちろん。おそらくは人一倍。自分が欲張りな人間だということなら少しは気づいている。

 しかし同時に誰かのために生きてみたいとも思っている。あの人のために。大切な人たちのために。そして、まだ見ぬ人たちのためにも。

 

 歌姫と名優は、強い意思をもち、自分が決めた道を歩み、その道を歩み切った。彼女たちは時空を超えて、人々の心の深いところで生き続けるであろう。そしてその記憶は、どうしようもない苦境や逆境に陥ったときに蘇り、その人の人生を力強く支えるであろう。生身である彼女たちは永遠の世界を生きようと決めて、そして生き切った。ぼくたちは自由であり、選ぶ力を与えられているのである。