25|180920|京都

 早朝に金沢を発つ。大阪で用事を済ませ京都へ。鼻水が垂れてくる。どうも風邪っぽい。ドラッグストアでいつもの葛根湯と栄養ドリンクを買って急ぎ対処する。その気配はまもなく止み、ほっと胸をなでおろす。明日から娘も楽しみにしている家族旅行がある。

 

 京都にて未来構想会議を実施。4回目となるこの日は少人数での場。これまでのやりとりで浮かび上がってきている気配を、どのように具体的なカタチにしていくのか。

 

 旧いものと新しいものとが対立し苦悩や葛藤を生み出している。もはやその状態は定常化しており、淀みや停滞が生まれている。このままではいけないということは現実が伝えているし、危機感がないわけではない。

 

 組織であれ地域であれ、場には記憶がある。そして望もうと望むまいと、その場にいる個人はその記憶の影響を受けている。その記憶の積み重ねを文化と呼ぶ。ある場に共感したり、あるいは反感したりするのは、その場の記憶と個人あるいは集団の記憶とが響き合った結果である。

 

 同じものごとに共感する人もいれば、反感をもつ人もいる。共感と反感に良い悪いはない。その人の個性的で個別的な記憶によって感情が湧きおこっているだけである。同様に旧いこと新しいことに良い悪いはない。何が旧く何が新しいか、あるいは何を正しいとし何を正しくないとするかは人それぞれである。

 

 目の前に現れたものごとをどう捉えるかは千差万別であり、一人ひとりが自らの記憶でつくりあげたフィルターを通して世界を眺めているに過ぎない。

 

 そして価値創造とは、場を逸脱する意思からはじまる。その場の記憶による無意識的支配から脱し、真に自由でクリエイティブな発想をするためには、実は自らが自身の記憶に支配されている事実を認識するところから始めなければならない。そして、そこから脱するために自らの意思を発動する試みが必要となる。自身の記憶も含め、場の記憶は過ぎ去っていったものであり、今ここに実在しているものではない。過去の積み重ねで今が成立しているのも一つの側面ではあるが、それはそれとしておく。

 

 そのうえで、純粋な私は果たしてどうしたいと思っているのかという意思の在り処を自らに問うのである。その意思の在り処を明確にしたとき、場に流されるでなく、場に参画して未来をつくる可能性が生まれる。そしてそのとき、新旧や善悪や好き嫌いを越え、場の記憶が制約条件でなくリソースとして顕現する。ひとりの意思が、場の記憶に結びついている意味や価値を転換するのである。

 

 視界良好に綴るは、個人的で個別的なぼくというひとりの人間の思考実験の経過である。