33|180928|広島

 広電バスに乗って中心市街地からほど近い牛田にある安樂寺へと向かう。白島九軒町で下車。73年前、母はここで生まれ被爆九死に一生を得た。従姉のKは「生き運があったんじゃよ」と言う。

 

 小学校の高学年までは毎年広島で暮らす祖父母のもとに帰省していたから、一度くらいは通ったことがあるのかもしれないが記憶にない。グーグルマップを片手に見覚えのない道を歩く。高層マンションが幾つかあり小洒落たカフェもある。全体的に落ち着いた雰囲気の住宅エリアのようである。

 爆心地から2キロも離れていないこのエリアでは、原爆で何もかも破壊され更地になっていたのではないだろうか。つい先日訪れた東北の学校跡地で目にした津波の爪痕が頭をよぎる。

 

 人間は目の前に現れる苦悩や困難をどうにかこうにか乗り越え、生き継いでいく。できることならば、自らの身にそのような状況は起こらないでくださいと心から願うけれど、晴天の霹靂にそうした事態は生まれるのかもしれない。明日は我が身である。

 

 ぼくの晴天の霹靂を挙げるとしたらどうだろうか、2つはすぐに思い浮かぶ。小学校卒業前の病気発症、そして昨年春の会社のビッグ・バンである。だがその他にも自らの弱々しい意思では抗いきれず、結果的に身に降りかかってきた困難は数しれずある。人生を根底から揺さぶった大失態もすぐに頭に浮かんでくる。そうした痛く苦しく恥ずかしい経験からこそ、ぼくは何かしらを学び、何かを喪って何かをつかんできたように思う。

 

 橋を渡る。気持ちよく空が広がっている。陽は暖かくTシャツが汗ばんでくる。ほどなく目的地に到着する。浄土真宗本願寺派。大好きだった祖母の実家の墓がここにある。

 表の本堂に参拝したあと、裏にまわってうろうろするとすぐに見つかった。他と比べて少しだけ大きめのサイズのお墓。お供えされた花や榊がまだ新しい。ぼくは今日初めてこの場にやってきたわけだが、まだ会ったことのない遠い親戚の誰かが墓守をしてくれているのだ。そしてぼくがこのお墓の存在を認識するはるか昔から、ぼくに流れる系譜の8分の1はここにある。

 

 お寺を後にし母に電話をかけてみたが、つながらない。ぼくにはどうやら母がいつも隣にいるように思っている節が見受けられるが、母には母の人生があり母の事情がある。電話に出られないこともあるし、折返しがないこともある。当然である。

 

 帰りは女学院前でバスを降り、鮮魚が美味しいと教えてもらった立飲み屋に入る。まだ夕刻前だが、狭い店内に続々と人が集まってくる。お客はそれぞれ顔見知りなのであろう、誰かが来るたびに言葉が交わされ、店は徐々に熱気を帯びてきている。ぼくはひとり、クラフトビール片手に家族のことやあれやこれやをそれとなく考えている。