35-2|180930|広島

 今回の沖縄県知事選挙において、誰に票を投じるかという選択をぼく自身が迷うことはほとんどなかった。そして今回の選挙では、ぼくが票を投じた候補者は39万票を集めて県知事となり、票を投じなかった候補者は8万票差で選挙に敗れるという結果となった。

 

 安室ちゃんが引退しても、選挙が終わって次の県知事が決まっても、票を投じた候補者が勝ったとしても負けたとしても、昨日と同じように今日は始まりそして終わってゆく。ぼくたち県民は昨日と同じように学校に行き、昨日と同じように仕事に行く。そこにある日常は何も変わらない。県知事は決まったが、昨日と今日で現実は何も変わっていない。そして今日と明日では何かが変わるというのだろうか。

 

 今回の選挙で敗れた候補者に票を投じた沖縄県民が31万人いて、そのなかにはぼくが親しく付き合ってきた人もいる。そしてその彼らには、ぼくが見えていないものが見えているのではないかと思う。彼らが投票したのには理由があり、彼らの世界観があり、世界観を支える現実認識がある。彼らが見ている世界や認識している現実を知りたい、いや知らなければならないのだと今ようやく素直に思える。そんな自分の変化に気づき、我ながら驚く。そしてそれは好ましい変化なのではないかとぼくは思っている。

 

 これまで沖縄で生活し、より良い未来をつくろうという試行錯誤のなかで出会い、どちらかと言えば心をひらいて関わってきた人たちがいる。その人たちとのあいだで投票先の選択が異なるということは当たり前のことなのかもしれないが、よくよく考えるとぼくにとっては若干ショッキングなことでもある。

 

 沖縄県知事の座席は一つしかなく、選挙のたびに勝者の一方に敗者を生む。選挙そのものが勝者と敗者を生み出す構造になっているのだから、それはそれで仕方ないことだとは思う。

 

 では、その勝敗を決する勝負が終わったらノーサイドで、ということは成り立つのであろうか。ノーサイドで沖縄のために力を合わせることは可能なのだろうか。選挙戦では自らの主義主張を声高に語り、時に相手との差異を強調するなどして戦ってきた者たちが、選挙後に相手との共通善を見出し、差異を生かして協力しあうことは可能なのであろうか。それともそんなことは政治の世界を知らないからこそ言える、青臭い戯れ言なのであろうか。

 

 人間には感情がありプライドもあり、動物的な衝動や欲望もある。自身の生存を賭けた凌ぎ合いにおいて自らを否定し、自らを突き落とした相手のことを認め協力することが現実的にできるのかと問われたら、「はい、ノーサイドですから」などと笑って言えるほどの器量はぼくにはないかもしれない。だが、激しく対立するほどの違いがあるからこそ、協力しあったときに生み出されうるエネルギーは大きいのではないか。それぞれの持ち味を生かして、より大きな仕事をすることは果たしてできないのであろうか。

 

 沖縄に移住してから政治を身近なものとして感じるようになった。沖縄と日本、日本とアメリカの関係が、沖縄に暮らすなかで自分ごととして見えてきたように思う。しかしそれと同時に、沖縄という地に馴染み、沖縄で生活するなかで、自らの旗を鮮明に掲げることが難しくもなっていった。隣人にどう見られるかが気になったということもあるし、そもそも右だ左だ、保守だ革新だ、反対だ賛成だといった対立構造に自らを置くのが元来からの性格的に耐えられなかったこともあるかもしれない。

 

 まあ多分に繊細すぎるのかもしれない。あと概してぼくは考えこみすぎる。こうした傾向はおおよそ良い結果を生まず、囚人のようにがんじがらめの牢獄へとぼくを閉じ込めてしまう。

 何かを表明することによって、そこに責任が発生することを恐れているのかもしれない。それは政治に限ったことではなく、ぼくという人間におけるあらゆる物事に対する態度に含まれた課題なのかもしれない。

 

 仕事は思ったようにはかどらないが、それでも一日一日は確実に過ぎてゆく。少しずつではあるが身体は慣れてきていると信じて、具体的に身体を動かしていきたいと思う。明日から10月だ。