43|181008|東京

 これまで節操なく手を出してきた。

 

 ぼくのどこかに潜んでいるボタンが押されると、対象への熱狂と没頭が始まる。それはひとたび始まれば激しい台風のような猛威をふるい、ぼくはそれを制御することができない。対象との関係の果てが見えたとき、あるいはそこに行き着いて、ようやくその熱狂は鎮まってゆく。そして程なく新たな熱狂と没頭がおとずれ、充足や飽きや破綻によって終焉する。その繰り返し。

 

 一歩外に出れば、そこには新しい出会いがあり、ぼくは比較的たやすく誰かを好きになった。その人が抱える葛藤とそこに潜む可能性が、ぼくの内側にある何かと響き合ったのかもしれない。

 好意を抱き、その先の世界をともに見たいという思いがひとたびぼくの心をとらえると、居ても立ってもいられなくなった。可能な限りそばに寄り添い、今のぼくが差し出しうるものを差し出したいという熱情に駆られた。

 状況に流され自分も相手もよく見えないまま、ぼくはその欲望を満たしてきたかもしれない。それは結果として困難や破綻を生み出し、自身の行き過ぎた衝動を抑制することを少しずつ憶えていった。そうしていつからか他者との緩衝材として会社という器を意識的に用いるようになった。そのときどきの出会いをぼく個人の所有から切り離し、仕事という公共財の一部として捉えることによって、衝動的で惚れやすい自らを抑制し、余計に傷ついたり傷つけたりすることを回避しようと試みてきたように思う。

 とは言え、出会った人に対する好奇心を抑えることはなかなかに難しく、出会って何らしらの働きかけへと及んでしまう自らの有様は、「節操がない」と評価されても仕方ないものであったように思う。もちろんぼくにだってそれなりの言い分はある、そう言って弁明したいのはやまやまなのだが、書き出してみるとそれらは全て自己都合に終始しており絶句するほかない。

 

 ぼくはどうしてこんなに節操なく生きてきたのだろうか。どうしてこんなにすぐに誰かのことを好きになってしまうのだろう。この節操のなさが何かしらのポジティブを生み出した面もあったのかもしれない。おそらくあったとは思う。けれど、結果的にたくさんの人を傷つけてきたし、ぼく自身もその経過でそれなりに傷つき損なわれてきた。

 

 ともに生きようと真摯に関わりあうことによって、その出会いがどう結実するのかをぼくは見届けたかったのかもしれない。出会ったとき、ぼくたちのあいだには可能性しか存在していない。ぼくはその未知に何が存在しているのかを知りたかった。具体的で実用的な何かに加えて、ぼくやその誰かの内面に何かが生まれることで、ぼくたちがどう変化していくのかを知りたかった。ぼくにとって誰かを好きになり関わっていくことは、自らに潜む何かと出会っていくことだったのかもしれない。確かにぼくは自分自身をもう少し深く知りたいと思っていたし、もう少し好きになりたいと思っていた。

 

 

 そしてぼくは今日も誰かと出会う。それは自分と出会うことであり、知的好奇心が導く果てなき旅を歩んでいるということなのかもしれない。

 ぼくは何者であり何者でないのか。なにゆえにこの時代に生を受け、今もなお生かされているのか。幾重もの出会いなくして、そこで起こった数々の出来事なくして、自身への理解を深めていくことはきっとできなかっただろう。

 

 ぼくはこれからも節操なく誰かを好きになり続けるのであろうか。できるならば他の誰かではなく、ぼく自身のことをもう少し好きになれたらと思っているのだが。