80|181114|函館

 エゴと魂と意思について考えていた。

 

 今ぼくが取り組んでいることは誰かに求められていることではない。ただ、ぼくが誰のことも想定していないかと言えば、そういうわけでもなかったりする。ごくごく身近な家族や縁ある人たちをそれとなく思いながら、あくまで自らの意思にそって悪戦苦闘しながらも何とか前に進もうとしている。

 

 思うのだけど、たとえば家族、あるいは、ビジョンを共有して切磋琢磨しあってきた仲間とか、実のところはぼく自身の分身なんじゃないだろうか。妙に具体的なイメージを伴って、そんな思いが意識にのぼってくるときがある。別々の肉体をもって生きているけれど、ある一つの魂というのか、共通した「何か」をもった人たちは、それぞれ互いの映し身として配役を全うし合っているのかもしれない。

 

 沖縄に移住してある時期からと言うもの、ぼくはある意味で沖縄と同調して生きてきたような気がする。ぼくも10数年を沖縄を拠点に活動してきたわけだが、人それぞれの背景は違ったとしても、ここを拠点に活動している人たちは、みんな魂の根っこのようなところでつながっているんじゃないだろうか。「魂」と言うと仰々しく聞こえるかもしれないけれど、まぁとにかく、みんな心の底でどこか似たような思いをもっているのかもしれない。そんなことを思ったりするわけであります。

 

 かつての同僚も、出会ったときに交わした約束を、ああして果たしてくれたのかもしれない。そう考えると感慨深いものがあるから不思議なものだ。表層的にはつらく苦しい出来事であったとしても、その裏には深い思いが含まれているのかもしれない。当人同士も気づいていないのかもしれないが、それこそが「魂の約束」ってやつなのかもしれない。もちろん単なる妄想かもしれないのだが、時にはそんな風に世界を眺めてみるのも悪くない。そしてそのように眺めてみると、世界はより立体的になり、その解像度を増してくるように思える。

 

 ここ数日で、自らの病気に対する意味や印象が転じたときのことを思い出していた。それに紐付いてかどうか理由ははっきりしないが、いろんなことが少しクリアに見えるようになった気がする。自らに苦をもたらす影が極まったとき、影こそが揺るぎのない光を放ち始めるのかもしれない。それはあらゆることに当てはまるように思う。そしてこんな物思いの場面では、いつものように昔の相方を思い出すのである。