86|181120|函館

 午後は市場に立ち寄り、沖縄に持ち帰る手土産を注文した。小ぶりの毛ガニ、ウニ、イカ、雄シシャモ、ホッケを少しずつ頼んだ。カニは函館で当日に処理してもらったものを持ち帰り、そのまま夕食にする予定。妻や娘が喜んでくれるといいのだが。

 

 自分自身のこれまでを書いているわけだが、記憶が身体のどこかしらから蘇ってきたり、思いもよらぬ方向に話が展開していったりと、とにかく予測がつかない。今は細部にこだわらず、流れるに任せて手を動かすことにしている。何も考えていないわけではないのだが、手の動くに任せているような感覚である。いったんゴールまでたどり着けば、そこからノートに手書きしたものをパソコンに移し替えていくつもりである。自分がどんなことを書いているのか、読み返すのが楽しみではある。同じことをくどくど書いているように感じているが、実際はどうなのだろうか。

 

 朝夕のくつろいだ時間には読書をしている。なかなか読み進まず、函館に来てからは13050ページぐらい。良い気分転換にもなる。2,000ページ近かった歴史小説大作は中断して、ここ最近は河合隼雄先生の書籍を読み返している。

 

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 難しいのは、「自己実現」などという言葉を聴いて治療者がそれに巻き込まれてしまうことです。嬉しくなって、この女性の「自己実現」のために私も頑張ろうなんて思い始め、「じょうずに駆け落ちしなさい」なんて言い出すと絶対おかしくなります。実際にそれに近い治療者もいますが、一人の人間の中に巻き込まれてしまうと、ものが見られなくなってしまいます。そうかといって、完全に離れたところから見て「なんや不倫のおばさんが」というようでは、これまた、ぜんぜんだめですね。この中間あたりにいて、本当に道が見つけられるだろうか、その道を見つけるのに何ヶ月ぐらいかかるだろうか、自分がカウンセリングすることによって意味のある結果が得られるであろうかと、そこまで考えるのが「見立て」なんです。

 

 まあ一年はかかるだろうと予測する。一年のうちに夫のほうがしびれを切らして裁判所に訴えるかもわからない。運転手さんが爆発するかもわからない。あるいは、この女性が息切れして自殺してしまうかもしれない。そんないろいろな可能性を全部見直しながら、「よし私がこの人を引き受けることによって、自分がカウンセリングすることによって、意味ある結果を出せるんじゃないだろうか」というところまでを覚悟して、はじめて「では、毎週おいでください」というのが「見立て」なんです。そんなことを何も考えないで、”受け入れておけば一人で勝手に自己実現するでしょう”というのは、話が甘すぎると思いませんか。本当にカウンセリングをやっていこうとするなら、そういう「見立て」ができないといけないということです。

 

** カウンセリングにおける「見立て」について|『河合隼雄のカウンセリング講座』から引用

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 河合先生の言っていることのどこまでを理解できているのかはわからない。けれど、これまでを振り返っていて、自分はまさに「甘すぎた」のだと思っていたところであった。

 

 結局のところ、ぼくは自分が都合良いように仕事を捉えていたのだと思う。人間に限らず、チームや地域などを「見立て」て関わってきたつもりであったが、「見立て」の前提となるぼくという存在自体が自律しておらず、相手と一緒にぐらぐら揺らいでしまっていることには気づいてすらいなかった。