96|181130|沖縄

 11月が終わった。気になっていたことは一通り済ませた。すっきりした清々しい気持ちで師走を迎えられることに安堵している。 

 

 取り組んできた書きものは、ついに2011年に入った。あと数十日で2017年春までのことを書き出すつもりでいる。ギリギリのペースで進んでいるので油断はできない。沖縄に戻っても、いい緊張感が続いている。

 

 1ヶ月ぶりの家族との時間に随分癒されている。我がままなぼくに寛大に付き合ってくれている妻と娘に改めて感謝の思いが湧いてくる。この仕事に集中できるのは言うまでもなく彼女たちのおかげである。

 

 これまでアップダウンの激しい人生を送ってきたし、外からの刺激やそれに反応して湧いてくる喜怒哀楽に対応するのに追われる毎日を生きてきたように思う。これからは、大切なものを大切にする意思をもった、ある意味では自分のエゴから少し距離を置いたような、そんな生き方ができないものかと思っている。

 

 そろそろ何かに取り組んでいきたいと思い始めている。しかし、先に先に、前に前に、早く早くというせっかちな自分の習性に自覚的でなければ、健やかな実りはもたらされないであろう。

 

 ハヤる自分自身にブレーキををかけることで生まれた空白によって、ぼくは過去を追体験し、そこでの体験を完了させ、後ろに過ぎ去ったものとして供養しようと試みている。

 

 焦る自分がいないわけではない。まずは動き出してみてから考えてみればいいと思わなくもない。

 

 でも実はそんなことよりも、ぼくはこれまでの自分にいい加減ケリをつけて、これまで表に陣取っていた自分によって抹殺してきた「もう一人の自分」が姿を現すところを見てみたいのである。もうしばらく時間はかかるのかもしれない。そうだとしても、そんな隠れていた自分を慈しみ、育て、これまでの自分と統合できたらと思うと、その可能性をもう少し信じてみたくなるのである。

 

 それは今のところ可能性でしかない。実際に何が出てくるのか、それがどんなものなのか、自分をも含めた誰かを幸せにするものなのか、価値があるものなのか、全くもって分からない。もしかしたら何も出てこないのかもしれない。

 

 だからと言って、その可能性を簡単に手放すこともできない。ぼくはそんな融通が効くような器用な人間ではない。心の目に映っている道なき道を信じて、地味に地道に、淡々と歩んでいくことしかできない。

 

 2018年の締めくくりとなる新しい月が始まる。一日一日を大切に生ききって、清々しい気持ちで新年を迎えたい。