101|181205|広島

 よく健闘しているのかもしれない。

 

 もちろん合間に仕事などのやりとりを電話やメールで行うことはあるが、原則的には朝起きて日が暮れるまでノートに向き合っている。気持ちが弾むようなものではない。右手も痛む。できることなら別のことに取り組みたい思いはいつだって存在しているし、油断すればその思いは即座に暴れ出すだろう。そしてひとたびそうなってしまえば、どこまでが意思でどこからが衝動なのかの境目は、あっという間に曖昧になってしまい、気づけばぼくは汚染され、元の木阿弥になってしまうだろう。

 

 表面的にどれだけ上手に取り繕ったとしても、これ以上自分自身を誤魔化すことはできないのだ。ぼくの内側に気配はあって、何かは確実に「ある」のだ。ぼくはそれに対峙し、その正体を明らかにしなければならない。それはぼく以外の誰にもできないことだし、それに取り組まないことは、ぼくの人生をきっと大きく損なってしまうだろう。

 

 ブログを読んでくれているのか、それとも別の理由かはわからないが、たまに会う人のなかに、ぼくをとても心配してくれたり、あえて苦言を呈してくれる人がいる。

 

 今、ぼくが自己探求に集中しているのは、おそらく事実なのだと思う。だが、それが今に限ったことかと問われれば、そうではないのだ。今もこれまでも、表面上やっていることは違えど、内実は同じなのだ。何も変わっていないのだ。これまで世のため人のために活動していたような体裁をとっていたが、実のところ、それらの活動も自己探求が主たる目的だったのかもしれないとすらぼくは思っているのである。もちろん当時のぼくにそんなつもりはなかったし、それなりに真面目に純粋な思いをもって取り組んでいたつもりではある。しかし、書くのも恐ろしいことだが、これまでの経験を振り返るなかで、ぼくという人間が誰かのためではなく貪欲に自分のためだけに生きてきたという真実に、改めて出会ったのである。

 

 ぼくは、自分にとって都合のいいこと、あるいは自分が受け入れられることだけを選択し、自らの記憶に取り込んできたようである。そうしなければ生きてこれなかったのだが、いずれにせよ、そうした記憶に基礎づけられてこれまでを生きてきた。

 

 先ほど書いたようなおぞましい自分、たとえば、誰かのために生きているという記憶に頼りながら、実際のところはどうしようもなく自分を中心にして生きている自分、そのようにしか生きられなかった自分、あるいは今後もそのようにしか生きられないかもしれない自分というものを、できる限りそのまま直視し、向き合い、認め、受け入れたいと思って、ぼくは今の試みに挑んでいる。隠したところで、あるものはどうせ現れてくるのだ。そうであるならば、あることを前提とし、もう少し自由に強く生きてみたい。認めたくなかった自分を少しでも受け入れることができれば、世界はわずかでもフラットになるかもしれない。少しは生きやすくなるかもしれない。そして少しぐらいは誰かのために生きられるようになるかもしれない。

 

 ぼくは自らの体験をもって、人間や世界を理解していこうとしているのだと思う。もちろんそれらはとても個人的なものだ。しかし、自らをできるだけ深く掘っていくことで、あるいは自らをできるだけ広く開いていくことで、思いもよらなかった人間理解や世界認識に至ることがあるのかもしれない。これまでだってそのようにしてぼくは生きてきたし、学んできたし、分かち合ってきた。そんなアプローチはとても自分らしい気がする。それは個から普遍へと至ることを見据えた、地道で淡々とした道だ。

 

 今日は愛する人の誕生日だった。彼女のこれから1年が、より深く広く、幸せで豊かでありますようにと願った。