140|190113|大阪

 罪悪感の正体を追いかけている。

 

 光影、善悪が表裏一体で存在しているとすると、あらゆる善には悪が潜んでいることになろうし、また同様に悪にもひそやかに善は存在しているということになろう。そう考えると、悪に対するイメージが少し変わってくる。罪悪感は単純な悪に伴うものではなさそうである。罪悪感は自らとどう関わりがあって発生するのであろうか。

 

 とりあえず「罪悪感」をググってみると、ウィキペディアに気になる文言があった。

 

 「罪悪感の本質とは、集団から排除される危険を感じたときに生じる、本能的な生命の危機感の表出である」(中野信子、澤田匡人「正しい恨みの晴らし方:科学で読み解くネガティブ感情」)。つまり罪悪感とは「集団から排除される危機感から生じる」もの、ひとまずそう理解することにする。では、それは一体どういうことであろうか。もう少し解釈を深める必要がありそうである。

 

 また同じくウィキペディアの記載から、罪悪感とは「自らに内在している規範意識(正しいと認識されているルール、倫理や道徳)に反していると感じるところから生まれるもの」と読み取れる。自らの体感と照らし合わせてみても、その記載内容には合点がいくように感じる。

 

 再び先ほどの話に戻るが、罪悪感の発生源が「集団から排除される危機感」とすると、集団の意識、その集合意識のスタンダードにとって受け入れがたい行為に臨もうとしたり、あるいはそれらに中指を立てるような反抗的行為に臨もうとする主体は、「その行為そのものの善悪に関わりなく罪悪感を抱く」ということになるのであろうか。

 

 ちなみに、ここで書いている話の前提となっているのは、ぼくの極めて個人的な事情である。これからどう生きていくかと自らに問うなかで、どういうわけか「罪悪感」というテーマが前景化してきている。ぼくが誠実であろうとするならば、それには取り組まざるを得ないようである。年頭のご挨拶で、「自分のため」と「誰かのため」とを結びつける試みに挑戦したいと書いた。「罪悪感」をぼくなりに深めていくことによって、どこかしら誰かしらにつながっているところまで到達することに挑戦していくつもりでいる。

 

 さて、罪悪感が「集団から排除される危機感」によって生じるとすれば、それは自らを安全に守ろうとする働きということになろう。そして、その働きかけに善悪はなく、また同時に善悪ともにあるとも言えよう。

 

 ぼくは、現実は内面の映し鏡として現れるという立場をとる。それについても、その背景となるものを示す必要があるかもしれないが、ここでは割愛させてもらう(すみません)。仮にそうだとするならばという前提で話を強引に進ませてもらうと(ホントすみません)、集団から排除される危機感とは、自らの意識が、集合意識のスタンダードと同調・協調していた状態から逸脱していこうとしている可能性があることを示しているのではないかと思える。

 

 だとすれば、これまで自らにとって居心地の良かった世界と泣く泣くでも決別し、次の新たな世界へと意識的に移行していこうとするとき、罪悪感というものを自分の内面から現れてきたメッセージとして自覚的に生かすことができるのではないか。

 

 

 

 ここ最近、ぼくは「罪悪感」を感じはじめている。実のところ、これまでにはほとんどなかったことである。このことは果たして何を表しているのだろうか。

 

 これまでは罪悪感を感じないように、自らのセンサーを閉じていたようにも思えてくる。自らのあらゆる態度や行動を、それを感じないように無意識に調整していたのかもしれない。恐らくは、そうするしかなかったのであろう。なぜならば、これまでのぼくには、罪悪感の苦しさに耐えながら活動することなど到底不可能であったからである。

 

 では果たして罪悪感を感じること自体に、善悪があるのだろうか。善とは言えないように、また悪とも言えないのではないかと思う。罪悪感を感じることに善悪はない。そこには、その両面が同時に含まれている。それは行為の善悪とは関わりなく発生しうるものであり、それを認識しておくことによって罪悪感から少し自由になる可能性が生まれるのではないだろうか。そして、そのことは生き方を変える可能性を生み出すように思える。

 

 確かにこれまでのぼくは、罪悪感から逃避してきたと言えるかもしれない。そのことで得られたものもあったと思う。そしてそうするために、自らの心の深くに沈めてきた大切なものもあったようにも思う。たとえば? 今思い当たるのは、自らの傲慢さと卑屈さであろうか。もしかしたら、傲慢な自分を隠すこと、後ろに下がらせることで、そこに存在している罪悪感から逃れてきたかもしれない。

 

 ぼくはこれまで謙虚や素直であることを美徳としてきた。そして、それを日常として生きられるように務めてきたつもりもある。そのことに価値がなかったとは思ってはいないし、これからもそれらを美徳として生きていくことは大筋として変わらないような気もする。

 

 しかし、「自らが傲慢である」かもしれないという罪悪感の気配から逃れようというエゴがそこに隠れていたとしたら、それは自らが持ち合わせているものを生ききることから遠いあり方であったかもしれないとも思う。謙虚や素直さは、ぼくの持ち味ではなく、現実に適応していく必要から育てたパーソナリティの一つであったのかもしれない。そしてぼくの本性とは、その対極にある傲慢さであるのかもしれない。

 

 「自らが傲慢である」という罪悪感をそのまま生きることは、自らを晒して誠実に生きることにつながるのかもしれない。そして、そうした罪悪感の重みこそが、傲慢なぼくの身を正してくれるのかもしれない。

 

 罪悪感を感じる方向へと意識的に向かっていくことによって、ぼくは自らを十全に生ききる道の入口に立つことになるのであろうか。その罪悪感とともにい続けようとすることが、大きな過ちから身を遠ざけるということになるのであろうか。

 

 まだ分からない。

 

 しかしそれは、罪悪感に開きなおるとか居直るという境地とは似て非なるものであるようには思う。持続する意思と思考の営みによってのみなし得るものではないかと思う。

 

 罪悪感や傲慢さをめぐるこうした問答は、しばらくのあいだ続きそうである。