147|190120|広島

 「純粋であること」にあこがれる気持ちってありますか?

 

 どうやらぼくはそれに強くあこがれているようです。何事も限度というものがあります。過少は良くないかもしれませんが、過大は過少より随分とタチが悪いことが多いように思われます。ほくはその過大なタチのようです。

 

 純粋であることに、どうしてそこまで強くあこがれてしまうのでしょうか?

 

 あくまで推測の域は出ませんが、「純粋=良いこと」と思っているからではないかと思ったのです。おそらく「純粋=善」と思いこんでいるに違いありません。

 

 では、そうした思いが強すぎると、どんな結果が生まれることになるのでしょうか?

 

 ぼくの場合で言えば、自分が持ち合わせている「不純」を否定することになります。それを否定している自らを認識できていたり、何かしらの葛藤があれば、まだマシな方かもしれません。不純であることをあまりに受け入れられない場合には、それがあたかも自らのどこにも存在していないかのように思いこんでしまうようです。そしてその前提で立ち振る舞ってしまうことになります。もちろんこれはあくまで、ぼくのケースです。しかし似たような経験をされたことがある方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 

 不純なるものが自らのなかには存在していないと思いこんでしまっているわけです。つまり自らが純粋そのものであるかのように勘違いしていきます。その結果、実のところ自らの不純がゆえに目の前に起こっている現象を、いささかの悪気もなく他人の誰かのせいにしてしまったりすることを厭わなくなります。

 

 ぼくは、純粋さにあこがれをもつことが悪いことだとは思っていません。ぼくはそれにあこがれる自分自身を否定するつもりはありません。むしろ今の心境としては、その逆と言ってもいいのかも知れません。

 

 ぼくは自らが実際に「不純」であることを直視し、それを認め、それを赦してやってもいいんじゃないかと思い始めています。そもそも「実際のところは不純であるにもかかわらず、純粋であると思うことができること」が、ぼくの「不純さ」の何よりの証左であることを認めざるを得ません。

 

 それを認識できたときに初めて、純粋さにあこがれることに、純粋に向かって生きようとすることに、価値が生まれたのかもしれません。ぼくはどこまでも不純であるからこそ、純粋であろうと試みることができるのかもしれないと思えたのです。この一連の気づきは、ぼくの目の前に広がっている世界が幾分か転回したということを意味しているのかもしれません。