159|190201|京都

 早く前に進みたくて仕方ない。

 

 そんな自分がいることを意識しようとしなければ、おそらくあっという間に流されていってしまうのであろう。それぐらいのパワーを感じる。

 

 「いやいや、前に進めばいいじゃないか。目の前の勢いある流れに乗ってしまえばいいじゃないか」。もう一人の自分が、たびたびぼくに語りかけてくる。

 

 ぼくは少し用心深くなりすぎたのだろうか。しかし、その流れにそこまで乗りたいと思うのは、どうしてなのだろう?!

 

 ぼくは怠惰で安易な人間である。できる限り楽をしたいと常々思っている。そして実際に楽な道を選ぶことのほうが多い。しかし本当にそうやって安易に道を選んでいいのだろうか?!

 

 「難しいこと=良いこと」だとは思っていない。しかし、安易な道は油断が生まれやすく、それ故に危険も伴う。流れたにせよ流されたにせよ、いずれにしても流れに乗った責任は取らなければならない。弾み出しに加勢があって楽に感じたとしても、詰まるところ楽な道などないのかもしれない。

 

 一方で、流れのない道を歩もうとすれば、自らの手足を動かさないといけない。さらに流れに逆行して歩むのであれば意思を味方につけなければならないだろう。なぜその方向に進むのかを自覚することなく歩み続けるのは難しい。

 

 大切なことを大切にして生きていこうと思う。しかしそれを実際的に生きるのは容易なことではない。わずかな心の隙間から、それが至難だと証明するかのような現実が差し込んでくる。そうした現実が迫りくるなかで、自らの本音を認識して、それを誠実に受けとめて生きることは生易しいことではない。

 

 自分はどうしたいのか。何をやるべきなのか。案外と見失っているものである。だから静寂に身を置き、内的対話を深め、その気配を探ろうと試みる。だが、その試みですら実践できない口実をつくってしまいがちである。

 

 持ち時間を考えている。それらをかけがえのないものとして扱っているだろうかと自問するが、心もとないこと甚だしい。自らを真に大切に扱いたいのなら、目の前にある時間、目の前にいる人との時間を真に大切にしていかねばならないとは思っているものの、なかなか容易にできることではない。

 

 ここ数日を振り返っても、今日という一日を振り返っても、まだまだまだまだ、、、である。ここに綴ったテキストは、そんな頼りないぼくに対する、もう一人のぼくの微かな抵抗なのである。