160|190202|倉敷

 誰かの歓心を安易に得ようとしている自分に気づく。

 

 結局はどのような形であれ、あらゆる言動の始末は自らつけることになる。それが本心からでなかったとしても。ついやってしまったり言ってしまったりしたことであっても。

 

 ここ最近は安易な言葉を吐かないように気をつけている。言葉を軽視したり放置したりしないように意識をしている。しかし実際のところ、どこまで自己認識できているのかは心もとない。

 

 戒めていても、つい軽口を叩いてしまう自分にほとほと呆れてしまう。どこまで無責任で見栄っ張りなのだろう。

 

 昔は言いたいように言いっ放し、吐いた言葉に責任も感じず、やりたいようにやっていた。それと比べれば、随分マシになったとは言えるかもしれない。

 

 ひどく中途半端に生きてきた。他人の評価や歓心は手軽に得られると思っていたし、それを安易に求めていた。そうして周りからの評価にエネルギーの大半を投じてきた結果、自らに向き合うエネルギーはほとんど残っていなかった。

 

 とても狭い視野で「自分のために生きる」のに必死だった。だがその地点から人生の目的や方向性が見出されることはないのかもしれない。

 

 「自分のために生きる」にも深度があるのかもしれない。いずれにせよ、ぼくたちはどうしようもなく自らとともに生きていくのである。何をしたところで、すべては自らの人生に結びついている。

 

 ぼくは今、新たに歩み出そうとしている。安易な道に頼るのではなく、鮮明な意思をもち地道に歩んでいこうと思っているのだが、これがなかなか難しい。