66|181031|大沼公園

 贈与について考えている。

 

 大切な人に贈り物をしたとする。贈り先から御礼のメールや電話が届く。どこまでも続く感謝の言葉に恐縮しきりで、「いえいえ、こちらこそ」などと返してはいるが、本当のところ、ぼくはどう思っているのだろうか。

 

 実のところ、それを知った以上、それをしないことの方がむしろ不自然で不実だと思ったまでのことなのだ。自らの行為によって相手に余計な気を遣わせたり、あるいは迷惑になるようなことはないかなど一応の思案はしたものの、下手の考え休むに似たり、そもそも相手の立場で考えるのはそう得意じゃないわけで、結局は自分の思いのまま行動したに過ぎないのである。一見相手のことを考えているようで、どこかやっぱり自分のことしかないのである。

 

 実際的なモノのやりとりを通して、ぼくは相手に関わりたかった。単純に言えば、ただそれだけのことである。

 自分の思いに素直になり行動に至った結果として、相手に感謝されたり喜ばれたりするのはもちろん嬉しい。しかし相手のためにその行動に至ったのかと言えば決してそんなことはなく、畢竟自分のためなのである。

 

 そういったわけで、ある基準を超えて感謝されているように感じると、ぼくは戸惑ってしまうのだ。あなたはぼくのことを良く思い過ぎているんじゃないですか、ぼくはそんな「いい人」じゃないですよ、ぼくは十分な下心を携えて、ただ自分のためにあなたに関わりたくてやっている、ただそれだけなんです。そんなことを言ってしまいたくなる。

 もちろんそんなことを口に出すのも野暮と思うし、なんだか話がこじれてしまって時間もかかりそうだから、「いえいえ、こちらこそ」とそれとない言葉で口を濁しているのではあるが。

 

 しかしよくよく考えてみれば、そんな相手がいること自体、ぼくにとって大事件であり、なんとも有り難いことではないか。

 相手の喜びを自らの喜びとし、その痛みを自らの痛みとして生きることができるなら、また少し自由になれるのかもしれない。そんな風にも思えた。