149|190122|広島

 このブログに定期的に書くようになってから、約5ヶ月が経った。

 

 ここには思いのまま書きつけてきた。ぼくは自意識過剰なので、誰かを意識するとどうしても書けなかった。そういう事情もあって、まずは自分のためだけに書くことにすると決めた。ここに書きつけていることに、誰にとっての何の価値もなかったとしても仕方がない。しかし、自らにとっては書く行為そのものに価値があるわけであり、さらにできるならば、自らにとっては価値があると思えることを書きつけようと思って、どうにかこうにか続けてきたのである。

 

 とは言え、本音では誰かに読んでもらいたい気持ちもあった。だから、ある時期から身近で縁があった人たちにはそれとなく案内するようになった。とは言え、趣旨はあくまで自分のため。読んでくれる人がいるのはとても幸運なことではあるが、それは意識すまいと開きなおるようにしてきた。

 

 しかし、ここ最近、この場で書くのは控えたほうがいいと思えるようなことが出てきた。逆に言えば、これまではそんなことは一切意識にすらのぼってこなかった。

 

 そう考えると、これまでのぼくはどこまでも自分の世界に引きこもっていたということなのかもしれない。そして今ようやく、誰かとともに生きようとし始めているということなのかもしれない。確かにそうした兆しは感じなくもない。

 

 当り障りのないことをここで書いていくつもりはない。それは少なくともぼくを充足してくれることはないだろう。しかし、ここで書き続けていくためにも自らを刷新していく必要が迫ってきていることを感じる。

 

 どこまでも「自分のために」しか生きることができないぼくは、どのように「誰かのために」を表現していくことができるのであろうか。

 

 この探索もしばらく続いていくことになりそうである。

148|190121|広島

 その後も継続して書いているのだが、最終章になるはずの章がなかなか終わらない。このままだと広島で書き出しきることは難しいかもしれないと思い始めている。さぼっているわけではないつもりだが、一日で書ける分量にも限りがある。やるべきことをやっているうちに、一日はあっという間に過ぎ去っていく。

 

 広島にもだいぶん馴染んできた。なじみの店も幾つかできた。とりわけ近所のうどん屋はお気に入りで、週34回のペースで通っている。今回の滞在中には駅伝を観戦したり、映画に行ったり、食事以外もそこそこ楽しんでいる。

 

 早く進みたいと焦る気持ちがないわけではない。しかし今ぐっと踏ん張ることは自分が決めた道。その道の果てまで歩ききれば、次の道筋がきっと見えてくるに違いない。そこまではぐっと辛抱、ぐっと我慢だ。

 そうやって言い聞かせながら、これまでの自分にひたすら向き合っている。それがぼくにとって一つのケジメであり、責務であり、やるべきことなのである。

147|190120|広島

 「純粋であること」にあこがれる気持ちってありますか?

 

 どうやらぼくはそれに強くあこがれているようです。何事も限度というものがあります。過少は良くないかもしれませんが、過大は過少より随分とタチが悪いことが多いように思われます。ほくはその過大なタチのようです。

 

 純粋であることに、どうしてそこまで強くあこがれてしまうのでしょうか?

 

 あくまで推測の域は出ませんが、「純粋=良いこと」と思っているからではないかと思ったのです。おそらく「純粋=善」と思いこんでいるに違いありません。

 

 では、そうした思いが強すぎると、どんな結果が生まれることになるのでしょうか?

 

 ぼくの場合で言えば、自分が持ち合わせている「不純」を否定することになります。それを否定している自らを認識できていたり、何かしらの葛藤があれば、まだマシな方かもしれません。不純であることをあまりに受け入れられない場合には、それがあたかも自らのどこにも存在していないかのように思いこんでしまうようです。そしてその前提で立ち振る舞ってしまうことになります。もちろんこれはあくまで、ぼくのケースです。しかし似たような経験をされたことがある方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 

 不純なるものが自らのなかには存在していないと思いこんでしまっているわけです。つまり自らが純粋そのものであるかのように勘違いしていきます。その結果、実のところ自らの不純がゆえに目の前に起こっている現象を、いささかの悪気もなく他人の誰かのせいにしてしまったりすることを厭わなくなります。

 

 ぼくは、純粋さにあこがれをもつことが悪いことだとは思っていません。ぼくはそれにあこがれる自分自身を否定するつもりはありません。むしろ今の心境としては、その逆と言ってもいいのかも知れません。

 

 ぼくは自らが実際に「不純」であることを直視し、それを認め、それを赦してやってもいいんじゃないかと思い始めています。そもそも「実際のところは不純であるにもかかわらず、純粋であると思うことができること」が、ぼくの「不純さ」の何よりの証左であることを認めざるを得ません。

 

 それを認識できたときに初めて、純粋さにあこがれることに、純粋に向かって生きようとすることに、価値が生まれたのかもしれません。ぼくはどこまでも不純であるからこそ、純粋であろうと試みることができるのかもしれないと思えたのです。この一連の気づきは、ぼくの目の前に広がっている世界が幾分か転回したということを意味しているのかもしれません。

146|190119|広島

 ぼくたちの持ち時間は限られている。時間とは「いのち」そのものである。そう考えれば、時間ほどかけがえのないものはないのかもしれない。

 

 時間の有限性を認識することと、その価値が高まり深まることとはつながっている。目の前に流れている時間への集中度が高まるのであろうか。有限な時間を意識し、その価値を高め深めようと取り組んできた人は、濃密な時間を過ごしているように思える。ぼくもそのことは意識してきたつもりはあるが、初学者の域を出ない。時間に大きな敬意を払い、それを大切に扱って生きている人たちがいる。ぼくはそうした人たちに関わって生きていきたいと思う。

 

 大切なことを大切にすること。時間を大切にすること。それはぼくにとって、何より大切なことの一つである。そうした自分を形成していくために、似たような思いをもった人たちとの関わりを今のぼくは求めている。濃密な時間を重ね、この人生を生ききりたいと願っている人は、きっとたくさんいる。

 

 どうしてぼくは人と関わり、関わろうとするのか。それは、人生の時間濃度と関係しているのではないかと思い至る。

 

 たとえばセッションという場を通じて、週に50分間、ぼくはある人に関わる。50分とは、週7168時間のうちの0.5%に過ぎない。しかしその0.5%の積み重ねから全体は成り立ち、それを積み重ねた果てに誰もが臨終の時を迎える。

 

 それが永遠に続くわけでなく、無尽蔵に存在していないからこそ、そこに価値が生じる。だから、それが仮に全体の0.01%としても、実際的に限りなく貴重でかけがえないものであろう。そのかけがえのないものを、そのように扱うことに挑むのである。ぼくには実に難しい試みである。

 

 たとえ15分であれ、50分であれ、3時間であれ、そしてそれが意識的であれ無意識的であれ、その時間を何に対してどのように投ずるのかをぼくたちは選んでいる。実際には、さまざまな事由から何をするのかについては選べないケースが多いかもしれない。しかし時間をどのように投ずるか、その時間をどう過ごすかについては、いつだってその人に選択権があるのではないだろうか。

 

 ぼくにとってのセッションとは、それぞれにとってかけがえのない時間を、誠実で真摯な関わりに投じあう営みである。時間に対する認識は、その関わり合いの時間に意味や価値を生み出すうえで、とても重要な役割を果たすように思う。

 

 実際的な面において、ぼくがその人に関わっている時間は、週のうちの0.5%にすぎず、その人の人生全体の0.001%に満たないであろう。しかし、その限られた時間を、日常に流れる時間と異なる密度をもった時間にできればと思う。もちろん主役はぼくではなく、目の前にいるその人であるが、ぼくはその場に臨むための準備をしておかねばならない。

 

 もしそのことが可能になるとすれば、かけがえのない瞬間の積み重なりでぼくたちが成立していることを理解しようと試みること、つまり未熟ながらも自らがそれを実践することが前提となるのではないかとぼくは思っているのである。

 

 そうして、ぼくは今日一日を振り返り、どう生きたかを問うのである。

145|190118|広島

 自らの傲慢をようやく自覚するに至る。

 

 とは言え、傲慢はどこまでも傲慢なもので、自覚したと言っても解消するわけではないようである。どこまでも自覚しようと試み続けねばならないのかもしれず、扱いがとても難しい。

 

 傲慢をエゴイスティックと置き換えてみる。そうか、ぼくはどこまでもエゴイスティックな人間なのか・・・。そう思いたくない自分もいる一方で、現実として認めたほうがいいと思っている自分もいる。

 

 認めようと認めまいと、エゴはそこにある。あると認めてしまえば、そこに何かしらの価値を見出そうとする試みが立ち上がってくるのかもしれない。エゴイスティックな人間だからこそ、より良く生きるうえでエゴを認識しようとする必要が生まれるのかもしれない。

 

 自らのエゴを認められずに生きてきたわけだが、その過去において、どれほどの人をその餌食にしてきただろうか。意識できていなかったとは言え、そうした自分に流されてつくってきた現実によって、多くの人を知らず知らずのうちに傷つけ、自らも傷ついてきた。その原因を自分の心に求めたとき、できるならば、できる限りそのような愚を犯さずに済む自分でありたいと思うところにまでは至ったのかもしれない。

 

 どうしようもないほどの生命力をもったエゴを理解し認識しようとすることによって、どうにか制御を試みている。しかし実際のところは、どこまでそれを制御できているのかは甚だ心もとない。

 

 自ら気づかぬうちに、強力なエゴの力に流されていないだろうか、誰かのためを装った自分に酔ってしまうことを、そして実のところ自らを満たすために動いているということを、どれくらい制御できているのだろうか。正直なところ、あとからあとから自分の至らなさを自覚するに至る日々である。

 

 しかし、それぐらいエゴの強い人間であるからこそ、誰かのためにできることがあると信じたい。「誰かのため」に近づくためには、ぼくはどこまでも自分の心に自覚的であることに精進しなければならないのかもしれない。ありがたいことなのだが、安易な道はなかなかないのかもしれない。そんなことにすら、ぼくはここに至ってようやく気付いたばかりなのである。

144|190117|大阪

 かけがえのない人生を生ききるために、力になれることがあればと思っている。その人は、ぼくの常識や限界をはるかに越えたところを生きているのかもしれない。これまでの経験など、役に立たないどころか邪魔になることすらあるようにも思う。

 

 自分のことを横に置いて、ただその人の隣に佇むことなどできるのであろうか。少なくともぼくにとっては、簡単なことではない。

 

 あらゆる瞬間、あらゆる場面で、地は出ているものである。これまで相手のためにやっていると思い込んでいたが、その大半が自分のためであったように思う。あまりの恥ずかしさに、どこかに引きこもってしまいたくなる。

 

 果たしてぼくが、自らの常識や限界の枠を越えたところに立っている人を信じ、その傍らに寄り添うことなどできるのであろうか。

 

 しかし、これからぼくが生きていこうとしている方向は、おそらくそちらへと向かっている。その人が自らの力で何かしらを獲得していくことに寄り添い、励まし、信じ、ともに生きるということ。

 

 だから、何があってもだいじょうぶという自分になるためにも、ぼくは今を越えていかなければならないのだ。そうして、苦しみや葛藤はこの先も続いていくのかもしれない。

 

 誠実であることは難しい。ぼくにとっては、自らが誠実でないということをよく認識しておくことによってのみ、それを意識しているときにおいてのみ、その人に僅かばかりでも誠実であることが可能になるのかもしれない。

142|190115|大阪

 これまで自らを衝き動かしてきた正体に気づいてからというもの、約半年ほど引きこもり、人様にご迷惑をかけないと思える範囲で関わりをもつことを自粛してきました。一人にならなければできないことに粛々と取り組みながら、次に動き始める時期がやってくるのを待ち、そのための準備をしてきたわけですが、どうやらその時期に差しかかってきたようです。

 

 ここから先に進むためには、新たなテーマを課し、それに粛々と取り組んでいかなければならないのかもしれません。そうしなければ、ぼくは早晩行き詰まることになるでしょう。そのことを十分に感じられるところまでは行き着いたようです。

 

 ぼくは心新たに、初心に立ち返って、これからを歩むことにチャレンジしていきます。果たしてどこまでそれができるでしょうか? ぼくはどうにも傲慢で怠惰に過ぎるようです。恥ずかしながら告白すると、自分がこれまで何かしら立派なことをやってきたかのように勘違いしていたのです。要するところは、これまでに頼らず、何もないところから改めてスタートする自信も覚悟もなかったのです。ちっぽけなプライドと言うのか、プライドとも呼べないようなものにしがみついて、崩れ落ちそうな自らをなんとか支えていたのかもしれません。

 

 あとどれくらい生きるのか、あとどれくらいの時間が与えられているのかと考えます。そうした条件を現実的に考えると、残りの人生でそれほどたくさんのことができるとは思えなくなりました。それがいいことなのか悪いことなのかはわかりません。いずれにせよそうした前提に立って、ぼくはこれから誰のために何をしていくのか、どうやって生きていくのかと考えています。

 

 これまでの人生のなかで、ぼくはすでに十二分に与えてきてもらったようです。ぼくがこれから果たしていくべきことはすでに十分に刻まれているように思います。ぼくは自らが持ち合わせているものを集中させ、これからの自分を改めてつくり直ししていかなければならないところに立っているのです。