114|181218|大阪

 右手が痛むなか、よく健闘したとは思う。これまでの痛みと質感が変わってきている。痺れるように痛む。果たして明日は書けるのだろうか。

 

 とにかくノートに向き合い、肚をくくって事に臨んではいる。数日後に鍼灸の診療予定がある。まずはそこまでもてばいい。

 

 とにかく痛い。パソコンの入力、服の着脱など、日常生活のあらゆる場面で支障が出ている。果たしてこの症状は快復していくものなのだろうか?

 

 とにかく今日も新たに1章を書き終えた。残るところ、あと3章の予定である。身体の奥のほうで何かしらが動いている感じがある。次への移行はすでに始まっているのかもしれない。

113|181217|大阪

 早朝便で大阪に移動。内科と眼科と鍼灸3つのかかりつけを回る。鍼灸では身体とともに右手も診てもらう。少し力は入るようになった。テーピングをしてもらったが、今も書くのは相当きつい。文字を書こうとするたびに痛くてたまらない。日常生活を送るうえではほぼ問題はないのだが、いざ書こうとすると手首に違和感と激痛が走る。明日から書くことに集中するつもりでいたが、何らかの支障が出てくるかもしれない。

 

 沖縄に戻ったときに、ブログの元原稿を書けずにいる。もちろん書くことは意識しているのだが、家族との日常を送りながら実行に移すことは相当に難しい。結局、書くことの重要度が下がっているだけのことではあるのだが。

108|181212|広島

 広島最終日。昼過ぎに一息ついて祖父母の墓参りへ。初めてお花を供えた。夕食は近くのうどん屋さん。滞在中4度目。美味しいうどんは毎日でも食べられる。

 

 毎日地道に取り組んだものの、結局それほど進まなかった。年内に終えることを目論んでいたのだが、もはやそれは現実的ではない。明日からしばらくは毎日少しずつでも進めていければと思っている。

107|181211|広島

 雨が降っている。話はなかなか展開しない。誰かに言われたように、自らの責任を他人に押し付けたくないが故に、ぼくは書いているのかもしれない。

 

 夕食は天麩羅屋。滞在中3度目。近所に美味しくてリーズナブルなお店があるのは助かる。

 

 広島で集中できるのも残り1日。明後日には沖縄に帰る。毎日があっという間に過ぎていく。油断していると本当に危ないかもしれない。

106|181210|広島

 早朝から佐賀にあるクリニックに行ってきた。ここに通い始めてから12年が経つ。今回は手の様子も診てもらったが、不思議なことに劇的に改善した。加齢とともに不具合は身体のあちらこちらに出てきているが、それでも昔と比べると健康になったように思う。生活習慣も随分変わった。

 

 広島に戻ると、もう暗くなっていた。ここで集中できるのも、あと2日。今日は道中で読書をしたり、なじみのクリニックで寛いだりと、いい休息になった。右手も楽になっている。明日はいいリズムで書けそうな気がしているのだが、果たしてどうだろうか。

105|181209|広島

   昨夜のNHKスペシャルは、「ロストフの14秒」というロシアW杯決勝リーグで日本がベルギーに逆転負けしたロスタイムの舞台裏に迫ったものだった。

 

 ロストフ・アリーナの左コーナーから本田圭佑が蹴り入れたボールはベルギーのGKクルトワに完璧に読まれていた。フィードされたボールを受けた快速MFのデ・ブライネは自陣ゴールエリアから時速30キロで駆け上がり、ハーフウェイラインを越え、対人プレイに自信のある日本のボランチの裏をとって右サイドにスルーパスを流した。ベルギーのエースFWルカクに並走していた長友佑都はそのマークを外し、ボールについていってシュートコースを完全に潰したから、右サイドのDFムニエは中央にいるFWルカクにダイレクトで折り返した。

 

 日本代表のキャプテンである長谷部誠は敵陣から猛ダッシュで駆け戻っており、ルカクのシュートコースを左足を伸ばして防いでいた。しかし、ルカクは後方に駆け込むチームメイトに気づいており、そのボールをスルー。それに対応しようと長谷部は残り足を伸ばしたが、ボールの軌道を変えるには至らない。そしてフリーのMFシャドリは日本ゴールに決勝点を蹴り込む。直後、ゲーム終了の笛は吹かれた。

 

 本田がコーナーを蹴ってから日本がゴールされるまで、わずか14秒。番組は、長谷部や長友、吉田麻也などの日本選手や、ベルギー選手、元日本代表監督など多くの関係者へのインタビューや30台近いカメラ映像の分析などから、その14秒を多角的に捉えようと試みていた。

 

 日本代表は後半開始早々に原口、乾の2発を叩きこみ、2点リードしており、その後も明らかに日本が試合のペースをつかんでいた。しかしその流れは安易なミスを機に大きく転換していく。自陣でのパス回しで、長谷部が近くにいた香川真司にぶつけてしまったのだ。

 

 ボールはタッチラインを割りベルギーボールとなる。スローインで再開したゲームは、日本にとってアンラッキーなヘディングシュートにつながり、1点差に追いつかれる展開となる。

 

 ロスタイムに喰らった高速カウンターのはるか前に、そのプレイはあった。もちろんそのミスで勝負が決まったわけでもなく、そこだけ切り取ればとりたてた出来事は起こっていないように見えなくもない。そしてそれ以後もプレイは30分近く続き、さまざまな選手や監督の判断と行動が重ねられていったのだ。

 

 しかし、あのときに局面は転換してしまい、大勢は決してしまったのかもしれない。あれは日本がまだ2点リードしていた局面だったし、自陣ゴールからも敵陣ゴールからも離れたハーフウェイライン付近でのパス回しだった。しかし彼はあのとき油断するべきではなかったのだ、いま振り返ってみれば。

 

 この試合はロシアW杯の名勝負の一つと評され、優勝候補の一角であったベルギー代表をぎりぎりまで追い詰めた日本代表の健闘は、世界のサッカーファンからも大いに讃えられたように記憶している。そしてもちろん、ぼくはここで長谷部選手のことが言いたいわけではない。

 

 番組を観たあと、「何か」が無性に気になって仕方なかった。ぼくは昔と比べてそれほどサッカー好きなわけでもない。しかし「何か」がぼくのなかで引っかかっていた。

 

 思い当たることがあった。大きな出来事が起こる何年も前に、ぼくは一つミスをしていたのだ。実際のところ、ぼくはこの瞬間までそれをミスとも何とも思っていなかった。それは日常的な記憶の一部として埋もれてしまっていた。

 

 しかし考えようによっては、それは取り返しのつかない判断ミスだったのかもしれない。逃してはいけないチャンスだったのかもしれない。いずれにせよ、あそこでぼくは油断するべきではなかったのだ。

 

 そしてひとたび局面が転換してしまうと、二度と同じような機会や流れが訪れることはなかった。その数年後、わかりやすい出来事が起こり、ぼくは大きく挫折した。挫折する前後のぼくはベストを尽くしていたのだが、それよりもはるか前、会社が上り調子になり始めた頃、ぼくは気をゆるめていた。少しホッとしていたことは確かだし、結果的にやるべきことをやらず、やりたいようにやっていた。油断していた。

 

 いずれにせよぼくの現実は、自分自身のそれまでの判断と行動のうえに成り立っていた。それが意識的であったかそうでなかったかはともかく。

 

104|181208|広島

 祖父母のところに行ってきた。あれほど小さい頃に可愛がってもらったのに、ぼくが病気になった12歳以後の二人に関する記憶はほとんどない。祖父は高校1年春の修学旅行の直前に亡くなり、祖母は沖縄に移住してから数年経った春に死んだ。祖母の葬儀の日、式場近くの桜が満開だった風景だけがやけに記憶に残っている。

 

 祖父母に感謝の一言も伝えたことがない。葬儀の記憶もほとんどない。祖父が亡くなって一時期、祖母が大阪の実家に暮らしていたことがあった。そのときもろくすっぽ祖母と正面向き合って話したことはなかったように思う。時折ぼくはボケてきた彼女に冷ややかな目線を向けたことすらあった。ぼくはどこまでも自己中心的だったし、それはもしかしたら今でも変わっていないかもしれない。

 

 ろくでもない人間だなと改めて思う。時計の針が元に戻ることはないし、きっと今でも、ふとしたときに誰かを傷つけたり、恩を仇で返したり、好意を踏みにじったり、誰かの不快な思いを引き起こしたりしているに違いない。

 

 そんなろくでなしでも、あの祖父母が応援してくれていたことを思った。今も変わらず応援してくれているのだろうかと思うと、なんだか泣けてきた。何をやってどうやって生きたっていいんだよ。彼女たちがそう言ってきてくれたから、ぼくは誰かの役に立てる人間になっていきたいと思えたのかもしれない。