71|181105|札幌

 約10日ぶりの札幌を楽しんだ。なんとなく良さそうと目星をつけていた珈琲屋は、5年ほど前に札幌を拠点に活躍するデザイナーと会った店だった。懐かしさに思わず彼や関係者にメッセージを送ろうかと思ったが、携帯の画面を開いたところでやめた。

 珈琲屋で少しゆっくりして、そこから徒歩数分のスープカレー屋で夕食をして帰る。素揚げされた地元野菜が串に刺さっていてなんとも豪快。気に入ったのでまた来ると思う。

 

 仕事はなかなか進まない。ここしばらく、転機となった10数年前のことを書いている。岡山高梁、広島、山口萩、沖縄久高島、熊野、東京下高井戸と続いた旅だ。過去を思い出し言葉にすることで、ぼくは自らを再定義しようとしているのだと思う。

70|181104|大沼公園

 今朝も駒ケ岳のまわりには雲ひとつなかった。正午にホテルをチェックアウトし、大沼公園駅へと向かう。快晴だ。このまま去るには忍びなく、レンタサイクルで周遊することにする。十二分に堪能。国定公園も歩いたし名物のお団子も食べた。もうこれでやり残したことはない。すっきり。

 1525分発の特急で札幌へ。歴史ものの長編小説を読んでいる。ホテルに到着し、随分久しぶりにテレビをつけたら二刀流の大谷翔平くんの特集をやっていた。テレビには魔力がある。はっと気づくと30分が経っている。いけないいけない、自分の課題に取り組まなければ。意を決して電源を切り、いつものノートを取り出した。

 ゴールは程遠い。まだまだ到達できそうにない。タイムリミットが気になり始めた。

69|181103|大沼公園

 朝、空にはたった一つの雲もなく、ただ青空が広がっていた。そしていつもの駒ケ岳はそこにある。散策したい気持ちをおさえて、日暮れまで仕事に集中する。窓の外に広がる木々は、紅から黄へと色味を変えている。露天風呂に入り、1日の疲れを癒す。ここに滞在するあいだ、思うようには歩を前に進められなかったように感じてきた。目の前には自然しかなく、何とも言えぬさみしい時間を過ごしてきた。今となって振り返れば、この環境だったからこそ自分と向き合えたのかもしれない。目の前にどんと存在し、揺らぐことのない大自然。毎日のように見上げた駒ケ岳。紅葉から落葉に至る時季の露天風呂。そうか、すべてこれで良かったのだ。そう思えた。

 

 日暮れ後に、記憶の世界に潜っていくことは今のぼくにはできそうにない。先は長いし気は急ぐ。しかし、きっとそれでいいのだ。陽のあがるうちに自らの暗部をのぞき込み、それをおもてに晒す。それを淡々と続ける。それをやり続ければ、いつか終着点へとたどり着くのだろうか。わからない。しかし、今はそれをただやり続けるしかない。それでいい。そしてそう思えば、ますます時間は限られている。限られた時間をいかに過ごすか、もっと意識を向けてみてもいいのかもしれない。

 

 この10日ほど、紅葉の木々に見守られ、いろんなことを考えた。いつしか窓から望むこの風景に愛着をもってしまったようである。しかしぼくには今からここを訪れる寒さと孤独にはとても耐えられそうにない。この仕事が落ち着いた頃、きっと戻ってこようと思う。

68|181102|大沼公園

 明後日にここを立つことを思うと名残惜しさが出てきた。最初はあれほど苦しくてすぐにでも帰りたいと思っていたのに不思議なものだと思う。紅葉は明らかに季節を過ぎつつあり、冬の気配は色濃くなってきている。

 露天風呂にも朝食会場にも部屋での作業にも随分となじんできたが、それも明後日の昼まで。できれば国定公園の散策ぐらいはと思っていたが、それも叶わずにここを立ち去ることになるかもしれない。仕事の歩みは決して順調とは言えない。

 ここでは随分と「さみしさ」を向き合ってきた気がする。露天風呂に入りながら、時折目の前の紅葉や沼の鮒たちと対話したりしながら、毎日いろんなことを思い返したり、これからを思ったりしていた。

 ありがとう、来てよかったと思う。ここに来たおかげで自分が少し引き締まったような気がする。

67|181101|大沼公園

 午後から函館へ。ホテルで知り合った方が案内してくれるという。函館山石川啄木の碑、五稜郭をまわり、地元名物という「チャイニーズチキンバーガー」なるものを頬張った。なんとご当地バーガーで全国NO1に選ばれた有名店らしい。短い滞在だったが函館を満喫し、1740分に五稜郭駅を出発。電車に揺られながらゴールまでの見取図を描く。若干のペースアップは必要かもしれない。そして、もう11月が始まった。

66|181031|大沼公園

 贈与について考えている。

 

 大切な人に贈り物をしたとする。贈り先から御礼のメールや電話が届く。どこまでも続く感謝の言葉に恐縮しきりで、「いえいえ、こちらこそ」などと返してはいるが、本当のところ、ぼくはどう思っているのだろうか。

 

 実のところ、それを知った以上、それをしないことの方がむしろ不自然で不実だと思ったまでのことなのだ。自らの行為によって相手に余計な気を遣わせたり、あるいは迷惑になるようなことはないかなど一応の思案はしたものの、下手の考え休むに似たり、そもそも相手の立場で考えるのはそう得意じゃないわけで、結局は自分の思いのまま行動したに過ぎないのである。一見相手のことを考えているようで、どこかやっぱり自分のことしかないのである。

 

 実際的なモノのやりとりを通して、ぼくは相手に関わりたかった。単純に言えば、ただそれだけのことである。

 自分の思いに素直になり行動に至った結果として、相手に感謝されたり喜ばれたりするのはもちろん嬉しい。しかし相手のためにその行動に至ったのかと言えば決してそんなことはなく、畢竟自分のためなのである。

 

 そういったわけで、ある基準を超えて感謝されているように感じると、ぼくは戸惑ってしまうのだ。あなたはぼくのことを良く思い過ぎているんじゃないですか、ぼくはそんな「いい人」じゃないですよ、ぼくは十分な下心を携えて、ただ自分のためにあなたに関わりたくてやっている、ただそれだけなんです。そんなことを言ってしまいたくなる。

 もちろんそんなことを口に出すのも野暮と思うし、なんだか話がこじれてしまって時間もかかりそうだから、「いえいえ、こちらこそ」とそれとない言葉で口を濁しているのではあるが。

 

 しかしよくよく考えてみれば、そんな相手がいること自体、ぼくにとって大事件であり、なんとも有り難いことではないか。

 相手の喜びを自らの喜びとし、その痛みを自らの痛みとして生きることができるなら、また少し自由になれるのかもしれない。そんな風にも思えた。

65|181030|大沼公園

 待てども待てども風は吹かず、時間だけが無為に過ぎていく。意を決して内にそよぐ風をつかまえんと最初の一点を打てば、自然な勢いを得、日頃想像だにせぬ世界に至る。身も頭も重く、意の在り処を問うことで、かろうじてその一点だけは打ちこみ、その先は自然な流れに身を委ねるのが精々である。できるなら流れに乗りながらも流されず、そこを離れた点から観じ続けられればとは思うが、今の基礎体力ではどうにも難しい。とりわけここに来てからというもの、歩みだけはせめて止めないようにと踏ん張る日々が続いている。