119|181223|大阪

 目の前に現れる課題や葛藤、苦悩に価値はあるのだろうか。それらにはネガティブなイメージが付着している。善悪で言えば悪のイメージで捉えられることのほうが多いように思う。

 

 それらには何らかの価値がある。そう仮定すると、そこから逃避すること、それらを回避すること、あるいは他者との関わりなどからそれらが解消することが、喜ばしいことだとは一概に捉えられなくなってくる。

 

 誰かが困っている状況に遭遇する。そうすると、ぼくはつい手を差し延べたくなる。それは意識的にやっているというよりも、その衝動を抑えられないと言えるかもしれない。手を差し延べたくなる衝動がぐわっと湧いてくる感じである。

 

 なぜ手を差し延べたくなるのか。ぼく自身がそれなりに困ってきたからであろうか。他者のそうした場面に遭遇すると、共感して居ても立ってもいられなくなる。なぜなのだろうか。

 

 手を差し延べるとき、そこに「善意」は存在している。しかしながら正直なところ、放っておくことができないのである。その状況を放置しておくことで襲ってくる罪悪感に耐えられない。それがどこまでエゴイスティックなものなのかは分からない。だとしても、表から見て「善意」ある言動にもエゴが含まれていることは否めない。

 

 課題や葛藤、苦悩にも光が含まれている。だとすれば、そこから人が解放され楽になるということには毒が含まれている可能性もあるのかもしれない。ぼくが誰かに手を差し延べたあのとき、その人の養分を奪ったこともきっとあったに違いない。ある意味では変化、成長する機会を奪ってきたのかもしれない。余計なお世話ってやつだ。

 

 目の前に苦しんでいる人が現れたら、これからぼくはどうするだろうか。もちろん関わっていくことはあるだろうが、これまでなら関わってきたケースであっても関わることができなくなることもあるのかもしれない。

 

 人に関わることは、そうした善と悪、光と影とが表裏一体となった営みである。生きることそのものが、その繰り返しによって成立している。

 

 ぼくはこれまで、ある意味では盲目的に他人に手を差し延べてきたのかもしれない。そんな自分になることをどこかしら目指していたような気もする。ぼくはそこに近づいていく自分に満足していた。「世のため、人のため」に活動している自分に酔っていたのかもしれない。

 

 自分は間違っているのかもしれない。過ちを犯してしまうかもしれない。あるいはすでに過ちを犯してしまっているのかもしれない。今のぼくには、そうした恐れが芽生えつつある。それはまだ微かな兆しであるが、そんな恐れとともに生きている今の状態は、悪いとばかりは言い切れないのかもしれない。むしろ今のほうが、幾ばかりかでも自分以外の他者とフェアに付き合えるのかもしれない。

 

 そうやって振り返ってみると、「自らを満たす」ために、ぼくがこれまでの人生を生きてきたことが浮き彫りになってきたように思えてくるのである。