134|190107|札幌

 札幌の寒さは、少し和らいだ気がする。

 

 娘は沖縄に戻り、妻と合流。親と物理的に離れた時間を過ごすことは彼女にとっての大冒険だっただろう。大阪のおばあちゃんのところに行きたいという思いと、一人で飛行機に乗ってパパママが身近にいない生活を送ることが怖いという思いとのあいだで、どうしたらいいか揺れているように見受けられた。

 

 妻によれば、那覇空港に到着した娘はぐったりした様子だったとのこと。大いに楽しみ、さまざまな経験をしたのだと思う。勇気を出して一人で大阪に行って良かったと思っているんじゃないだろうか。いつもとは違う環境に適応するためにも懸命にがんばったのだろう。しかし正直なところ、ぼくには彼女のことがよく分からない。

 

 少し気を緩めれば、その人のことを分かっているかのように思いこみ、あるいは人生についてよく理解しているような顔をして、上から目線で講釈を垂れてみたり、勇み足に先回りしてしまう癖が出てしまう。ぐっと腰を入れ、しかと当人の声に耳を澄ませることができればいいのだが、つい自己都合が首をもたげてくるのである。

 

 ぼくは自らに問う。彼女にどんな人生を歩んでもらいたいと願っているのかと。そしてそう願うぼくは、彼女に実際的にどう関わっているのだろうかと。

133|190106|札幌

 いつもより遅めの時間に目覚めた以外は、いつもと変わらないことの繰り返し。身を整え、決まったことを行い、朝食をとり、机に向かい、夕方になれば食事に出かける。今日は味噌ラーメン。凍えるほど寒いが、雪が間近にある生活にも少しずつ慣れつつある。

 

 年末年始とペンを握る機会が少なかったこともあって、右手首の調子は随分と回復した。あの頃の激痛を思うと、今こうして無事であることがどれだけ有難いかが理解できる。

 

 有って当然なものが喪われたときにしか、その有り難さを本当の意味で理解することはできないのであろうか。大切なものを喪い、何かしらの痛みを伴わなければ、人は賢くなれないのであろうか。

 

 今日一日酷使したからだろう、右手首に違和感が出始めた。どうにも薬の類いは好きになれないし、これぐらいの痛みならどうにでもなると思っているところがある。だが高を括るのはやめておくことにする。先生の言いつけを守っておこうと、薬局で買った湿布を患部に貼りつけた。

 

 ぼくは、少しずつでも賢くなっていると言えるのであろうか。大切なことを大切にできる賢明な人間になりたいと、日々精進しているつもりではあるのだけれども。

132|190105|札幌

 札幌2日目。雪が降っている。寒い。夕食を食べに出ると歩道にも雪が積もっている。普通のスニーカーしか持ってきていないが、足元はだいじょうぶだろうかと心配になる。

 

 6歳の娘は単身飛行機に乗り、大阪の実家へと帰省した。弟夫婦が面倒を見てくれており、昨日は仮面ライダー、今日はキッザニア、明日は動物園とおおはしゃぎの様子である。彼女には兄弟姉妹がいない。6歳と3歳の従兄妹たちと遊びまわり、お風呂に入るのも布団で眠るのも一緒だというのは、ぼくが想像している以上に彼女にとっては楽しいことなのかもしれない。

 

 ちなみにぼくには1歳下の弟がいる。ぼくにとって弟がいるのは当たり前であった。そんなぼくには、兄弟姉妹がいない娘の気持ちはよく分からない。

 

 彼女は前歯が上下含めて6本抜けている。ニコっとすると本当に歯がない。弟夫婦から歯抜け丸出しの娘の写真が届いた。従兄妹たちと一緒に遊んでいる彼女は、それはそれは楽しそうで、とてもいい顔をしていた。

 

 

 昨年から、このHatena Blogでブログを始めているが、誰かのために書いてきたわけではない。あくまでも「自分のため」が第一義だった。

 

 「自分のため」を生きてきたぼくは、果たして「誰かのため」の存在になりうるのであろうか。ちょっと分からない。だが、今年からは少し意識してみようかと思っている。もしかしたら、どうしようもなく「誰かのため」にならない存在であるかもしれない。だとしても、かつての自分自身に対してであれば、何かしら力になれることもあるのかもしれない。いや、それぐらいのことはせめて持ち合わせさせていて欲しい。

 

 葛藤していたとき、悩み苦しんでいたとき、本当に大切なことを後回しにしてしまっていたとき、傲慢になって浮かれ上がっていたときの自分のことを思った。あるいは、失意の淵に沈みかけていたとき、そしてそれでもそこにある可能性を信じて賭けてみようとしていた、あきらめの悪い自分のことを思った。

2019年 年頭のご挨拶|190101

 新年明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

 さて、一昨年春に思いがけない出来事があり、しばらく失意と絶望に打ちひしがれておりましたが、おかげさまですっかりと元気を取り戻しました。これまでの人生で最大の挫折経験でしたが、おかげさまで多くの不要なものを手放すことができ、これからの人生で大切なことがはっきりし、目の前に現れる世界が以前よりも鮮明に見えるようになった気がしています。

 

 昨年は、沖縄に家族との生活拠点は置きつつも、沖縄での仕事がほとんどなくなったという事情もあり、福岡・広島・大阪・京都・東京・北海道などを行き来しながら、これまでを振り返りつつ、新しいリズムをつくる日々を過ごさせていただきました。

 

 新卒採用の責任者をやったり(10年ぶりに大学生の皆さんと深く関わった気がします)、建築設計事務所とともにオフィス・リノベーションに取り組んだり、ずっと関わらせてきていただいたNPO法人のリブランディングに取り組んだり、士業オフィスの事業構想づくりやブランディングをやったり、社会福祉法人の未来構想づくりの場をつくったり、経営してきた一般社団法人は収益事業化がうまくいったので少し休ませていただいたり、と充実した1年となりました。失意の淵にあった時期、あるいはそこから何とか立ち上がろうとしつつある時期にお声かけいただいたり、ご一緒させていただいた皆さんには、本当に感謝しております。どうもありがとうございました。

 

 また、これら法人向けのプロジェクト・デザインやディレクション、経営支援のお仕事と並行して、個人向けのパーソナル・セッションをスタートしました。昨年の立春以後、身近にご縁のあった方のみにご案内させていただき、経営者や、転職や移住希望の方、能力開発を目的とした方など、何らかの人生の転換期を迎えている方々に、50100分のセッションをやらせていただいています。

 

 ぼくにとってのパーソナル・セッションとは、「たった一度の限られた人生のなかで、本当に大切にしたいことを大切にして生きることができるように」という意思と願いをもって、それぞれの時間を、真摯に誠実な関わりあいへと投じあう営みです。ぼく自身の経験上、自らの両目だけでは、自分自身の真なる姿をクリアに認識することが難しいのではないかと思っているわけですが、こうした真摯で誠実な関わりあいの場こそが、これからのぼくにとって、一つの生き筋になる可能性を感じることができた1年にもなりました。

 

 こちらのパーソナル・セッションについては、今年の立春を機に、SNSBlogWebなどを通じてご案内させていただければと思っています。ご興味ある方は、ぜひご連絡いただければ幸いです。

 

 また、こちらのHatena Blogにて、細々とですがブログをはじめております。正直なところ、昨年までは「誰かのため」を意識しないようにして書いてまいりました。ですから、アテのない自分語りをしているように思われるかもしれません。

 今年からは、少しずつでも「自分のため」と「誰かのため」とが結びついていくようなものを仕立てていければと思っております。時折お立ち寄りいただき、ご笑覧いただければ嬉しく思います。

 

 おかげさまで、ぼくは42歳になり、娘は6歳になりました。家族全員、とても元気にしております。ぼく自身は、何よりも大厄の出来事から学び得たことが大きく、シンプルな意思と願いをもって後半生をはじめられることを幸運に思っております。

 

 2019年からは、ぼちぼちと自らを開いて動いていければと思っております。みなさま、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

感謝

120|181224|大阪

 自らが置かれた場において、その場に関わりながらも、その場と適切に距離を保ち続けることができるようになりたいと思う。

 

 ぼくには、その場に入り過ぎてしまう傾向があるようだ。少しでも気を緩めると、もはや後戻りできないところにまで入り込んでしまう。そしてもちろん、後始末は自らの責任でつけなければならない。

 

 そうした傾向があったおかげで獲得できたものがあったことは言うまでもない。だからこそ、これからは場に引き込まれないようにぐっと踏みとどまり、どんな状況であれ自由でフラットにあり続けられる心と身体を確立していかなければならないと思うに至ったのだと思う。

 

 ぼくの周辺も刻々と動いているのであろう。どこかの誰かがぼくに向かって呼びかけてくる気配のようなものを感じる。

 

 これまでのぼくは、そうした身の回りに漂っている気配のようなものに身を委ねるようにして身を処してきたと言えるかもしれない。おそらく、自らの状態により意識的であろうとしなければ、これまでと似たような状況のなかにぼくは埋没していくことになるのだろう。

 

 そうならないためにも、当たり前のように流れる日常のなかで、自らを節制しうるだけの身体と心を整えておかねばなるまい。

 

 事は気づいたときには始まっている。そしてぼくは、始まってから辻褄を合わせてきた自らのあり方に、ほとほと飽きてしまったのである。

ある出来事が起こることの意味についての考察|181231

 12歳での小児糖尿病。40歳での会社の崩壊。なぜこんな目に遭わなければならないのだろうか。晴天の霹靂に起こったこれらの出来事は、ぼくにそんな思いを抱かせた。

 

 病気になってしばらく、ぼくは自分の人生が取り返しがつかないほど損なわれたように感じ、絶望の淵にいた。これまで言いつけを守って良くやってきたと言うのに、あまりに酷い仕打ちじゃないか。神様なんてどこにもいるわけがない。あまりにも大きな驚きと悲しみと憤りを処理することができず、とりあえず神様と世界と家族を恨み、10代の思春期を過ごした。

 

 とは言え、時は前に進み、ぼくも一つずつ年齢を重ねていった。いつまでも誰かに保護された子どもでいるわけにもいかない。生きる意味を探索していたぼくは、ユング心理学の大家である河合隼雄氏の存在を知り、自らも含めた人間の心に関心をもつようになる。そして人間理解を深めるプロセスを通じて、自らの孤独や依存心の根深さに気づくに至る。

 

 当時、ぼくは教師やカウンセラーになりたいと思っていたが、その憧れが自らの欠損から生まれたものであると気づいてしまった。自らの欠損を他者と関わることによって埋め合わせようという無意識の企みを知ってしまった以上、ぼくは別の道に進まなければならないと思った。誰かを真に癒したいと願うのならば、まずは自らの欠損を直視し、自らの責任でそれを解消できるように挑まねばなるまい。そうして、ぼくは大学卒業後に沖縄に移住し、自ら会社を創業するに至った。会社名は「そのものが生まれ出ずるところ」を意味する「ルーツ」を命名した。

 

 心の世界は、目にが映らず、現世的利益を直接的に生み出すわけでもない。そうした世界を直視し続けるためには心の力が必要である。ぼくはいつしか、自らの内側に損なわれながらも存在しているはずの「もう一人のぼく」に向き合うことができなくなっていった。

 

 ルーツはうまくいかないことばかりで、長期にわたって鳴かず飛ばずであった。しかし失敗するネタが尽きたのか、ある時期から少しずつ上向きになっていった。人間の可能性を追い求めた結果、仕事づくりや地域づくりにも関わることになり、多中心のコンテクスト・カンパニーとして多種多様のプロジェクトを手がけた。売上は1億を超え、あらゆることが順調に流れ始めているかのように思っていた。ぼくはちょうど40歳になったところだった。30代前半で多額の借金に首が回らなくなり、無報酬で働いていた時期があったことなどを振り返りながら、やっとの思いでここまでたどり着けたことにほっとしていた。さぁこれからが本番だ。「沖縄のイノベーション、沖縄からのイノベーション」をコンセプトに事業をさらに展開し、沖縄の公共財となるべく役割を全うしていこうと意を新たにしていた。

 

 そんな2017年の春、役員と全社員が一斉に離職した。役員の辞職通知を受け取ってから1ヶ月半という短期間で、ぼく以外の全員が会社から去っていった。上昇気流に乗って順調と思っていたルーツは、あっという間に墜落。木っ端微塵となった。ぼくは愛着ある40坪のオフィスをひとりで閉め、とりあえず近所にアパートの1室を借りた。人間不信となり、自律神経もおかしくなり、前半生を賭けた会社の崩壊にアイデンティティ・クライシスに陥った。これからどうやって生きていけばいいのか、途方に暮れた。

 

 そして、あれから1年半が経った。

 

 あれほどの出来事が起こることがなければ、ぼくは二度と自らの心の真実に向きあうことができなかったのかもしれない。予想外の病気という形態をとって、12歳の頃にはすでに兆しは現れていたが、心の世界の真実を知るのは楽なことではない。これまで自分が大切にしてきたことを否定しなければならないことだってある。ひとりの人間のなかに美しいものが必ずあるように、美しいと言いがたいものもきっとあるだろう。できるならば美しいものだけに囲まれて生きたいという思いだってある。少なくともぼくの場合は、グロテスクなものと共存しているなんて思いたくもなかったのだ。しかし、存在しているものを無視し続けることは結局のところできなかったのである。

 

 ぼくの前半生は、会社の崩壊とともに終わったのかもしれない。ぼくはきっとあのときに一度死んだのだ。しかし、ぼくはこれからも生きていかねばならない。自分自身のために、愛する人のために。ぼくはようやく諦めて、これまで見ないようにしてきた「もう一人のぼく」に向き合いはじめた。光の裏に存在していた影の自分。それと向き合い、出会い直し、その存在価値を認めることは、ぼくが大学時代から望んでいたことであった。

 

 沖縄に移住し、会社を創業し、15年以上が経っていた。ぼくはなぜあれほどまで、他人の人生に、他人のチームや組織に、あるいは暮らしているわけでもない他所の地域に、自らを賭けて深く関わろうとしてきたのであろうか。その理由が「もう一人のぼく」と出会ったときに少しだけ理解できた気がした。損なわれているように見えていたものは、ぼくに損なわれていたものであった。ぼくは自らの心を映し鏡にして世界を眺め、その世界に関わってきていたのだ。「誰かのため」という巧妙なコーティングの下には「ぼく自身のため」という地金が隠れていた。しかもなんとも恥ずかしいことに、ぼくは火事場にレスキュー隊で飛び込んでいる正義のヒーロー気取りだったのである。

 

 ここに至ってようやく、ぼくは自らの存在に基礎づけられている深い孤独や依存心の存在を少しながら認めることができたのかもしれない。そうした影に見えるものたちこそが、ぼくの現実的で実際的な価値を生み出していた源であったのかもしれない。影を伴わない光は存在しない。現実に目を奪われるがあまり影の存在を無視しようとしてきたことは、あまりにも傲慢だったのかもしれない。目の前に起こる出来事を通じて、人生は不思議とぼくが本来歩むべき方向を示してくれているのかもしれない。たとえそれが表層的にはぼくが望んでいることではなく、また場合によっては深い苦しみや葛藤を生み出すものであったとしても。

 

 

119|181223|大阪

 目の前に現れる課題や葛藤、苦悩に価値はあるのだろうか。それらにはネガティブなイメージが付着している。善悪で言えば悪のイメージで捉えられることのほうが多いように思う。

 

 それらには何らかの価値がある。そう仮定すると、そこから逃避すること、それらを回避すること、あるいは他者との関わりなどからそれらが解消することが、喜ばしいことだとは一概に捉えられなくなってくる。

 

 誰かが困っている状況に遭遇する。そうすると、ぼくはつい手を差し延べたくなる。それは意識的にやっているというよりも、その衝動を抑えられないと言えるかもしれない。手を差し延べたくなる衝動がぐわっと湧いてくる感じである。

 

 なぜ手を差し延べたくなるのか。ぼく自身がそれなりに困ってきたからであろうか。他者のそうした場面に遭遇すると、共感して居ても立ってもいられなくなる。なぜなのだろうか。

 

 手を差し延べるとき、そこに「善意」は存在している。しかしながら正直なところ、放っておくことができないのである。その状況を放置しておくことで襲ってくる罪悪感に耐えられない。それがどこまでエゴイスティックなものなのかは分からない。だとしても、表から見て「善意」ある言動にもエゴが含まれていることは否めない。

 

 課題や葛藤、苦悩にも光が含まれている。だとすれば、そこから人が解放され楽になるということには毒が含まれている可能性もあるのかもしれない。ぼくが誰かに手を差し延べたあのとき、その人の養分を奪ったこともきっとあったに違いない。ある意味では変化、成長する機会を奪ってきたのかもしれない。余計なお世話ってやつだ。

 

 目の前に苦しんでいる人が現れたら、これからぼくはどうするだろうか。もちろん関わっていくことはあるだろうが、これまでなら関わってきたケースであっても関わることができなくなることもあるのかもしれない。

 

 人に関わることは、そうした善と悪、光と影とが表裏一体となった営みである。生きることそのものが、その繰り返しによって成立している。

 

 ぼくはこれまで、ある意味では盲目的に他人に手を差し延べてきたのかもしれない。そんな自分になることをどこかしら目指していたような気もする。ぼくはそこに近づいていく自分に満足していた。「世のため、人のため」に活動している自分に酔っていたのかもしれない。

 

 自分は間違っているのかもしれない。過ちを犯してしまうかもしれない。あるいはすでに過ちを犯してしまっているのかもしれない。今のぼくには、そうした恐れが芽生えつつある。それはまだ微かな兆しであるが、そんな恐れとともに生きている今の状態は、悪いとばかりは言い切れないのかもしれない。むしろ今のほうが、幾ばかりかでも自分以外の他者とフェアに付き合えるのかもしれない。

 

 そうやって振り返ってみると、「自らを満たす」ために、ぼくがこれまでの人生を生きてきたことが浮き彫りになってきたように思えてくるのである。