85|181119|函館

 一昨日に続いて、夕方から「根ぼっけ」に行った。義理の兄が漁で獲ってきたホッケが二束三文で売られていると知って、一念発起で店を出し、根ぼっけの価値を地道につくってきたのだと言う。エネルギーに満ちていて、とても72歳には見えない。毎朝4時にはセリ場に向かい、お客に食べさせたい海産物を仕入れ、職人とともに夜12時過ぎまで店に立つ。しかしさすがにくたびれてきたと言う。それはそうだろう、ぼくなんかは今の年齢でもできそうにない。パイオニアとして新たな需要をつくり続けてきたその店を、思想や技術も含めて次世代にバトンタッチしたいと言う。しかし昔気質の職人としての流儀やプライドは、新世代とのあいだにギャップをつくり、それに苦慮しているようだった。ぼくはいち観光者であり一見客でしかないのであるが、何とかできないものかと思う。

 

 オーナーは漁師の血筋だった。父方が土佐の漁師で、その前は五島列島と言った。母方は山形のお坊さんで浄土宗系列らしい。「休みもないし、墓参りにも行ってないんだよな。行きたくないわけじゃないんだけど」とボソッと言った。ところで沖縄のお墓って大きいんだってね、と続けた。自分は大阪出身の沖縄人なんです、と伝え、確かに沖縄のお墓は大きいです、そしてご先祖様をとても大切にしているんです、と返した。気になるのであれば尚更、墓参りはした方がいい。

 

 坊主頭のオヤジの目はやさしかった。ぼくは沖縄の海人のオヤジを思い出した。どうもこのタイプに弱いんだよな、と自嘲気味に思った。何かしら力になれたらと思うが、もちろん通りすがりの者ができることなど何もなかった。ホテルまでの帰り道、北海道に住む知人たちの顔を思い浮かべたりしたが、自らのこれまでの失敗や失態を思い出し、そのアイデアはその場で捨てた。

 

 ぼくたちに与えられた時間は限られている。それらの条件のなかで、それぞれ自分が大切にしたいものを何とか大切に守りながら、生きていくしかないのかもしれない。そしてぼくにもその「大切な何か」が少しずつでも見えてきていることを願った。

 

 少しぐらいは孤独やさみしさに耐えられるようになったのであろうか。それと共に生きることができるようになったのであろうか。

 

 ぼくは店のオヤジの顔を思い浮かべた。またいつの日か、この店に来ることができたらと思った。