145|190118|広島

 自らの傲慢をようやく自覚するに至る。

 

 とは言え、傲慢はどこまでも傲慢なもので、自覚したと言っても解消するわけではないようである。どこまでも自覚しようと試み続けねばならないのかもしれず、扱いがとても難しい。

 

 傲慢をエゴイスティックと置き換えてみる。そうか、ぼくはどこまでもエゴイスティックな人間なのか・・・。そう思いたくない自分もいる一方で、現実として認めたほうがいいと思っている自分もいる。

 

 認めようと認めまいと、エゴはそこにある。あると認めてしまえば、そこに何かしらの価値を見出そうとする試みが立ち上がってくるのかもしれない。エゴイスティックな人間だからこそ、より良く生きるうえでエゴを認識しようとする必要が生まれるのかもしれない。

 

 自らのエゴを認められずに生きてきたわけだが、その過去において、どれほどの人をその餌食にしてきただろうか。意識できていなかったとは言え、そうした自分に流されてつくってきた現実によって、多くの人を知らず知らずのうちに傷つけ、自らも傷ついてきた。その原因を自分の心に求めたとき、できるならば、できる限りそのような愚を犯さずに済む自分でありたいと思うところにまでは至ったのかもしれない。

 

 どうしようもないほどの生命力をもったエゴを理解し認識しようとすることによって、どうにか制御を試みている。しかし実際のところは、どこまでそれを制御できているのかは甚だ心もとない。

 

 自ら気づかぬうちに、強力なエゴの力に流されていないだろうか、誰かのためを装った自分に酔ってしまうことを、そして実のところ自らを満たすために動いているということを、どれくらい制御できているのだろうか。正直なところ、あとからあとから自分の至らなさを自覚するに至る日々である。

 

 しかし、それぐらいエゴの強い人間であるからこそ、誰かのためにできることがあると信じたい。「誰かのため」に近づくためには、ぼくはどこまでも自分の心に自覚的であることに精進しなければならないのかもしれない。ありがたいことなのだが、安易な道はなかなかないのかもしれない。そんなことにすら、ぼくはここに至ってようやく気付いたばかりなのである。